聖ヨハネ会St. John's Congregation

福音史家聖ヨハネ布教修道会The Missionary Sisters of St. John the Evangelist

2014年6月8日 創立70周年記念日

聖ヨハネ会創立記念行事



内容

•     dvd  観賞(42分)(富士聖ヨハネ学園の歩み
 •     展示会
皆様お誘い合わせの上
ぜひご参加くださいますように。


”富士聖ヨハネ学園の歩み”というDVDから



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甲の原学院の思い出


甲の原学院の思い出 (Part 3)
                                                                  Sr.川久保林子

別の日にはシスターたちが口ぐちに報告されましたが、今日はキリン(クレーン車)が来たというのです。今なら珍しくありませんが、最近は小金井の工事場にもあるような長い棒のついた機械で山をけづってブルドーザーが低い所へ土を運ぶというような具合でした。どの位の期間だったか、とにかく一応広い場所ができて、修道院の2F建ての建物ができるようになり、学院の職員食堂で一室をカーテンで仕切って志願者とシスター3~4人が暮らしていた所を返上して急坂の上の新しい修道院へ引っ越しました。

新修道院には、2Fの東側に聖堂、神父様の部屋、1Fに応接室、個室、炊事場、洗濯室等々、2Fの半分は寝室でした。

毎朝のごミサは、八王子の教会の神父様がご不在の時はその頃恩方にできた聖パウロ会の神父様、立川の助任神父様等来て下さいましたが、後にはフランシスコ会の方々が施設に来られた時様子を見てお世話して下さったお年寄りの神父様が常住して下さるようになりました。修道院ができる迄は、週に1回早朝に学院の小トラックに定員オーバーして小金井修道院まで“ゆるしの秘跡”を受けに行っていましたが、山の上が落ち着いてからはその必要がなくなりました。

10年間30人近いノビスを養成して下さった聖母訪問会から修練女が戻り、
修練長と修練女のため、1年間のお約束で訪問会のシスターアニエスが八王子へ滞在してお世話下さったのは1960年3月で、小金井からの志願者も共に修練して頂きました。
 米軍が働いて下さった場所は、建物以外に平地の余裕があり、学院の子供たちもその頃にはいろいろな事ができるように成長しました。10歳過ぎたクラスの女子は、手芸とか畑仕事、男子は男子職員の指導で、急坂の土が流れないようにコンクリートの擁壁作りや家畜の世話などを身につけました。

 土井大司教様が来院されて、3月に帰院したノビスは5月には初誓願を立てさせて頂きました。当時は翌日にはそれぞれ職場へ派遣されて行きました。

 学院開設の時、マザー岡村が聖ヨハネ会の特質として、手のかかるお子さんを、と言われたそうで、都庁の役人の方々の中にそのご希望が浸透していたようです。時代的にも養護学校が建てられたり、特殊学級が受け入れたりして軽度の子供たちが行かれる場が増えていました。施設入所を依頼する人たちは重度を何とかしたい人々とか、児童相談所もその方面に傾いていました。この為東京都庁は思いがけない好条件で重度棟を建てるように、又その時には職員住宅の費用も負担しようと呼びかけてきました。学院でも重度が増員されるのなら職員人数は当然相当増やさなければなりませんから、法人の理事会でも取り上げて頂いて、20名の重度棟を増やすことになりました。この棟はできてみますといろいろな意見を出す方もありましたが、実際に当った職員の人たちは、世話の大変さと比例して、少しづつ進歩していく子供たちに慰められる事も多かったと思います。

 精神薄弱時施設に入所を依頼するのには、その保護者が児童相談所の福祉司の面接を受ける必要があり、入所施設の方も、児相から送られてくる児童を余裕があれば受け入れるのでした。

 1950年台のことで、甲の原学院でも、米川氏が福祉司と相談して入所を決めていましたが、その都度健康面のチェックを特に頼んでいました。ところが実際的にはそれが十分でなかったらしく、養護施設から来た子供がジフテリア菌の保有者だったのでした。その子供が甲の原へ来て間もなく感染者が出ました。児童中に5~6人、保母もシスターも例外なく発病しました。診療所だけでは間に合わず、市内の耳鼻科の先生にも依頼して、院内で隔離したりして、何とかおさまりました。後遺症が出て、しばらくは話す時フガフガになった人たちも何人かありましたが、間もなく忘れたように治りました。

 利用者は身障者ですし、子供ですから万事清潔にという具合に出来なかった故もあって、その後、赤痢、疫痢患者が出ました。人数の割合から見ると重症は少なかったのですが、残念なことに7歳の女児が1人、診療所のベッドで死にました。戦後の事でもあって大事にならずにすみましたが、この子のご家族は大変学院に感謝して下さり、あとまでも小さな手芸品などを送って下さったりしました。

 桜町病院からは、シスター稲垣も来院して下さったり、検査室で面倒をみて頂いたりしましたが、不潔にしていたということで、大目玉を頂きました。その後も長期間、検便を続けて頂きましたが、あの時期で回虫を駆除する必要のあった人も相当数ありました。
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甲の原学院の思い出



甲の原学院の思い出 (Part 2)
Sr.川久保林子

 50名定員が100名に増員する段階の二期工事で大体必要な箇所が出来、大きな食堂、その2Fがホール、寮舎の並びに50名の寮、そのもう1つ上に学習棟ができてボイラー、洗濯場等不自由だった場所が増えました。



 
 近所の農家の方々は好意と共に野菜を売って下さいましたし、一通りの食料品店からもこまめに届けて下さって、食品は貧しいながらも子供たちの喜ぶものを調理できました。朝食のコッペパンはマーガリンをぬって3等分して1人ひとりの摂取量を調整するのが一仕事。プラスチックのお皿に分け、おかもちに入れて運ぶ係りが和夫君、長い廊下を学習室兼食堂へ届けると必ず数が足りなくなり、誰々の分と言って又炊事係りが不足分を補うことになっていました。大分経ってから和夫君が運ぶ途中にコッソリ自分の口に入れていた事が判明しましたが、不思議だったのは不足がいつも一切れだけだった事でした。

 八王子は小金井より寒く冬季はストーブのご厄介になり子供たちに危険なので、金網でかこったりしていました。

 聞いて来られるのか、二期工事後には立川のベースの方たちが度々訪問されました。皆さんが寄付して下さる古着ばかり来ている子供たちの、夫々の寸法を計って帰られた米軍のご婦人の方々が、あるクリスマスに、一人ひとりに衣類一式を着せて下さった事がありました。平素はすぐに汚してしまう子供たちにもその方々の気持ちが通じたのか、みんな珍しくおとなしかったようでした。

 又、GIの人たちも、ベースで不用になったと大きな冷凍庫を運んで来て下さったり、その中身の牛肉、ハム、ソーセージ、大量のアイスクリーム等を下さり、皆で集めたという寄付金まで頂いたりしました。

 二期工事でできた学習棟は、その後2回災害に遭いました。1回は、新しい2部屋の中央につけられたビニール製の仕切りのカーテン。和夫君が“火事だよ。火事だよ。”と言ったのを聞いた者たちが気付いた時には、モクモクと黒煙が窓から見えたので騒ぎとなり、消化器をどこへかけたらいいのか分からずに噴射したり、電源スイッチを探したり、職員とシスターたちが消火にかけ回りました。黒煙がいくらかおさまった頃、消防自動車がかけ上がってきて、消防士が屋根に上ってバリバリと天井を壊しました。放水も十分されたので学習棟は水浸しになりましたが、火は全部消えました。戸棚の中まで黒く汚したことでしたが、修理されて学習に使用されました。2回目は伊勢湾台風と言われている強風で屋根全体がはがされて、西側に飛んで行ってしまったことでした。この為、棟全体が再度水に浸されてしまいました。火事の原因はマッチに興味をもった和夫君だったようですが正確な事は分りませんでした。

 本来の目的の修道院は、施設の上部の土地を整地する必要がありましたが、マザーのお考えで、愛聖園に始終来て手伝って下さった進駐軍の方にお願いして、立川ベースの軍の責任者の方に紹介して頂き、事情を説明して援助をお願いしました。沢山勲章をつけた方々は快く理解を示して下さり、兵隊たちのためにも仕事がある方がよいと思うからと早速様子を見させた上で手伝いましょうと言われました。一方では都内の募金の仕事もやめられず、マザーのお件で私は毎日出かけていましたから、2~3日後の帰り道、学院の近くの小さな木造の清水橋の横の土手をこえて通ったブルドーザーの足跡を見つけました。学院に戻ってみると、山の中腹にブルドーザーが置いてありました。翌日は土手をこわしたおわびに歩くことになりました。兵隊たちは礼儀正しく規則通りに時間を使って、定まった時間に往復しました。その次の日は山の裏側、村の方面を回って来たのですが、畑の中の道は狭いのではみ出したらしく、つぶれた畑の方の所へおわびに行くことになりました。
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甲の原学院の思い出


甲の原学院


甲の原学院の思い出 (Part 1)
Sr.川久保林子

 第二バチカン公会議前、1953年頃のこと、当時の教会法には、修練者の養成には、閑静な場所という項目があったのか、マザー岡村が聖ヨハネ会には小金井の病院しかない事、故土井枢機卿様のご意見もあったと思いますが、徐々に増えていくシスター達の修練院の場所を望んでいると洩らしておられました。


その為に土地が必要ですが、当時都内で修道会のために簡単に安く手に入るような売地はない状況でした。

 桜町病院の事務長は顔が広いし、実際的に病院の経営の責任を負っている人でしたから、そのうち間もなく耳よりな話をもってきました。戦後の時代で国有地になっている八王子の小高い山の南斜面が買えるかもしれないという事でした。マザーは早速それを手に入れたいと言われ、八王子市の市長にも会われ結核患者の退院後のリハビリ施設をつくるという名目で許可を得ました。

 一方、児童福祉施設、愛聖園関係の集まりでは、戦災孤児のため要求に応じて開設された多数の養護施設には、知的障害児がいて普通児と共にあづかるのが難しいという話が持ち上がり、桜町病院には精神神経科があるので、ヨハネ会が・・・という事になりました。当時のカトリック精神薄弱時施設は他になかったので、八王子の土地を使用するということになったのです。

 甲の原(かぶとがはら)の地名は、戦国時代に古戦場であった為の名前ということでしたが隣接地は市内の有力者である持田先生のご自宅と精神病院でした。先生は結核がとなりに来ては困るというお考えだったそうですが、精神薄弱児施設には反対されなかったようです。けれどもこちらの土地の周囲の畑などを次々購入されて、工事のトラック等入りにくくなるように散々邪魔をされました。マザー岡村は、持田先生にお近づきになりたいと、先生が病院に勤務に行かれる前を見はからって先生のご自宅へ日参されましたが、ついにお目にかかれませんでした。八王子市からも途中でクレームがついて計画地の半分は市におゆずりすることになり、その部分はあとに市営地として活用されました。

 時間はかかりましたが工事は何とか進んで、1955年から56年のはじめに建物が完成して7月に最初の子供たちを受け入れる事ができたのです。門をはいるところから少し坂があり、正面玄関は大きなガラス戸2枚引きであとの2枚も透き通っていましたから、1人の子供が怪我もなくつきぬけてしまったりしました。玄関の左手は炊事場、その2Fは職員食堂、右に入るとつき当たりが事務室と管理人の所となっていましたが、実際にはないないづくしでしたから8畳じきのたたみの部屋へ保母の方たち4名が入って下さいました。廊下をへだてて北側の部屋をおみ堂として使用し、殆ど毎朝八王子教会の神父様がごミサに通って下さいました。ドクター中村が診療所を担当され、その住居だけ山の中腹に一軒建てられました。侍者は毎朝中村先生でした。

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