聖ヨハネ会St. John's Congregation

福音史家聖ヨハネ布教修道会The Missionary Sisters of St. John the Evangelist

5月3日(水)創立者マザー岡村の墓参

5月6日(土)カトリック小金井教会の納骨式と墓参 今日は、初夏の暑さでしたが、ディン師の司式のもと、賛美歌を歌い、故人の永遠の安息を願って祈りを捧げました。
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マザー岡村の命日2016年4月26日


 
 4月26日は私たちに会の創立者、マザー岡村の命日です。朝のミサで、マザーのためと私たちの会のために祈り、墓参のために府中墓地へ行きました。あたたかな日でした。マザーの葬儀は、連休のはじまる前に行われました。東京カテドラルで行われ、当時の白柳大司教様、ムニ神父様、多くの職員・教会の方が集まり、マザーの永遠の安らぎを祈りました。多くの方々、今はマザーと共に天のみ国で私たちを見守ってくださっています。

 マザーはいつも「小さな私たちを神はお選びになり、大きなことをしてくださった。」とおっしゃっていらっしゃいました。神様のみ旨を求め、絶対的な信頼を持って、すべてのことなさっていらっしゃいました。晩年の病気との闘いで、十字架のイエス様と共に、会を導き、イエス様と歩まれました。お墓に刻まれている、ヨハネの言葉のように、一粒の麦となって、私たちの会、社会福祉法人聖ヨハネ会という実を結ばれました。私たちも、そのあとを慕うものとして、マザーの生き方を再度振り返った一日でした。
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2015年6月14日(日)聖ヨハネ会71周年記念日の交流会



6月14日(日)11:20a.m.~カトリック小金井教会の方々との交流会が行われました。

梅雨に入り雨模様にも関わらず、聖ヨハネの兄弟姉妹会の方々も多数来て下さり、参加者は約100名でした。

総長のあいさつの後、DVD「福音史家聖ヨハネ布教修道会」を上映し、その後、展示してある福音史家聖ヨハネ布教修道会の写真を見ながら、茶話会をいたしました。

                                   聖ヨハネ会
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2015年6月14日聖ヨハネ会創立記念行事

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2014年6月8日(日)聖ヨハネ会70周年記念日の交流会



6月8日(日) 11:20a.m.~ カトリック小金井教会の方々との交流会が行われました。

梅雨に入り雨模様にも関わらず、聖ヨハネの兄弟姉妹会の方々も多数来て下さり、参加者は約100名でした。前日、フランスから帰国した方が、時差がありお疲れにも関わらず駆けつけて下さり、その熱意に感激いたしました。

総長のあいさつの後、DVD「富士聖ヨハネ学園の歩み」を上映し、その後、展示してある富士聖ヨハネ学園の写真を見ながら、茶話会をいたしました。


DVDの間には、笑い声が響き、和気あいあいとした雰囲気の中で恵みの時を過ごすことができましたことを感謝いたしております。
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2014年6月8日 創立70周年記念日

聖ヨハネ会創立記念行事



内容

•     dvd  観賞(42分)(富士聖ヨハネ学園の歩み
 •     展示会
皆様お誘い合わせの上
ぜひご参加くださいますように。


”富士聖ヨハネ学園の歩み”というDVDから



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11月2日の墓参

11月は死者の月で、2日(土)11:00~府中墓地で教会の亡くなられた信者さんの納骨式がありました。帰天された方々の為永遠の安らぎを願い、讃美歌を歌い、創立者を始め姉妹たちの為にも心を合わせて祈りました。
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Mgr.V.Ghikaの列福式 8月31日






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福音史家聖ヨハネ布教修道会の2013年の創立記念日

「カトリック小金井教会の皆様との交流会」

 6月8日、本会は創立69周年を迎えました。創立記念行事として、今年は高齢福祉部門に光を当て、「桜町聖ヨハネホームと高齢者在宅サービスセンター」の歩みと事業の展開、そのもとになっている創立の精神を紹介するようなDVDを新しく作り、6月9日の10時のミサ後に小金井教会の皆さんをお招きして、観賞会、展示会、茶話会を行って分かち合いました。これが盛会となったことを感謝しております。職員の方々には、このDVDが原点に帰る良い機会になって、良かったとおもいます。
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創立者 岡村ふくの生涯 2月


Sr. 戸塚(左)、Sr.村井と共に



第四章 修道会の創立

土井大司教の命によって修道会の設立を要請された岡村ふくは、戸塚師の生前、一緒に働いていた戸塚富久、村井しげと共にその準備を始めました。指導司祭として、神言会のドイ人司祭プッスマン師が選ばれ、師の協力によってまず最初に会則がつくられました。
 
教会法に基づいた分厚い本は、いかにも日本で誕生した会にふさわしく、和紙に手書きされたもので、今日の活字に比べると、いとも優雅なものに仕上げられていました。

 必要な書類をローマ聖座に提出し、会の創立の許可が届いたのは、一九四四年(昭和十九年)二月、戦争もたけなわの時でした。同年六月八日、着衣式が行われ、最初の会員が誕生しました。戦争であらゆるものが次々と崩壊されてゆく時、日本の片すみに一つの小さな修道会が生まれたのです。

その後次々と入会者が増え、医師、ナース他、病院で働く会員も出てきました。

 戦争はますますはげしくなり、ヨーロッパ、オーストラリア、アメリカからの宣教師や修道女達は殆どの方が抑留され、また、各地の修道院は疎開を余儀なくされました。そのような状況でしたから、今誕生したばかりの修道会の修練女を他の会に修練のために預かっていただくことは不可能な状態でした。途方に暮れていた時、プンスマッ師の発案に土井大司教の賛同を得て、神言会の管区長様のご好意によって、多治見にある神言会の男子修道院の構内にある古い二階建ての建物の一部を聖ヨハネ会の修練院としてお借りし、聖霊会のシスターセシリアナが修練長としてご指導下さることになりました。

 土井大司教の司式によって着衣を受けて修練女となった岡村ふく、戸塚富久、村井シゲの三人はそれぞれシスターマリア、シスダーテレジア、シスタースコラスチカの名前をいただいて、修練期が始まりました。多治見へは岡村ふくと、村井シゲの二人が出発し、戸塚富久は病院のために残ることになりました。

 この戦争のはげしさでは、再び帰って来ることが出来るものかどうかと危ぶまれる状況でしたので、出発の朝、給食課の方達が同じ気持で作って下さった心のこもったご馳走も、胸が一杯で、のどを通りませんでした。

 多治見での生活は修練長による毎朝の講話と週二回の司祭の講話があり、作業としては三十名以上の司祭、修道士の方々の食器洗いのお手伝いとミサのためのホスチア焼き、掃除、井戸の水汲みなど、いろいろなことをしました。

 当時の様子をシスターセシリアナが残された次の手紙から伺い知ることができます。
「一九四四年六月ご聖体の大祝日に聖ヨハネ会最初の姉妹の着衣式が東京で挙げられました。神様はこの選ばれた姉妹たちを希望、喜び、犠牲、結実への道にお導きになるご計画だったのでしょう。翌日の昼頃、多治見の駅へお迎えに行きました。多治見には神言会の神父様のお手伝いに聖霊会の姉妹三人、シスターフェルナンディア、シスターアドルフイス、そして私かおりました。三人は本館から離れたアーノルド館に住んでいました。聖ヨハネ会の最初の修練女達は畳のお部屋に住まうことになりました。

 彼女達は犠牲と愛に燃えていました。着衣式の時の濃い紫色の絹の紋付に黒い袴姿にたすきをかけてお皿洗いを手伝いました。戦争中なので、多治見の修道院にはあちこちから神父様が集まり、その数が増えてきたので修練女達の応援は大変助かりました。宗教の勉強はモンセニョールーチェスカでした。彼女達の吸収力はすばらしいものでした。ある時マレラ使節閣下がご訪問下さいました。そして悦びのあまり、手を打ち合わせながらおっしやいました。『神言会、聖霊会、聖ヨハネ会、三つの会の結び、協力I致はすばらしい…』と。そして『戸塚神父様は私の秘書でとてもよい方でした』と付け加えられました。」

 戦争はますます激しくなる一方で、名古屋市内が爆撃され、空一面真っ赤で、いつ尽きるともなく燃え続いていた時は神父様方、聖霊会のシスター方と一緒に三人ずつ、御聖体の前で祈り続けました。
原文
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創立者 岡村ふくの生涯 1月


   

  このような、数え切れないほどの善意に支えられながら、病院は少しずつ充実していきました。また、当時の厚生省と東京都から結核病院である当院に、小児患者の対策をぜひ考えて欲しいとの要望が強く出され、大きな期待を寄せられました。物資不足はますます深刻になってきた時代に、その実現は難しいことでしたが、一九四八年(昭和二三年)十一月、待望の小児結核病棟「晴雲寮」が誕生しました。健康を取り戻し、元気で巣立ってゆく子供達の姿を見る時、職員達はどんなに嬉しかったか知れません。


 「小さな子供の目でも職員の苦労はわかりました。けれどみなさんは、喜んで私たち病気の子供たちを看護して下さいました。不平や不満があったら、あのように真心のこもった看護は出来ないと思います。誰かが自信をもって職員を統率し、引っぱって行ったのだと思います。そこで働く人たちは、みんながその心に合わせ、一丸となって私たちを看護し、養育して下さったのだと思います。難しい神様の教えなど小さな子供には分りませんでしたが、そこで働く方々の、言葉と行いを通して神様の教えを学ぶことができました。」


   これは退院後、大学に進学し、社会福祉の分野で活躍している、かつての愛する子供の言葉です。

 岡村ふくは表立って采配を振るうタイプではなく、ひとたび職員に任せたことはじっと結果を見守っていくのが常でした。そして何かを依頼する時には、それがどんな小さなことであっても大変ていねいな言葉でお願いしていました。海上寮時代からの職員だった村山氏は「岡村さんに用事を頼まれる時には、必ず初めに『申し訳ないけれども. . . 』といわれるので断れなかったものです。また戸塚師は遠い千葉の海上寮を訪れても、決して真っすぐには司祭館には入られないで、必ず病院中を一周され、一人一人に優しく挨拶され、それから後、初めて司祭館に入られたものです。疲れておられるだろうにといつも思ったものです」と。
 
長い間、ともに働いた篠原研三医師は銀祝の文集に次の文を寄せて下さいましたが、まさしく彼女の最も近くに居た者たちがよく知っていた姿でした。

「それにしても三十年近い勤務中での出来事を一つ一つ記憶をたどりながら思い出してみて、そこにはいつも一つの大きな教訓があったことを、しかもそれが今もなお生き生きと私を励まし、勇気づけていると申し上げたいのです。それとは『たえず微笑を湛えた無言の統率者』としてのお姿。そして、そこから学び得た教訓なのです。あなたは度重なるこの野人の、時には赦しがたいまでの行動に対しても二言の叱責も申されませんでした。微笑をもってこれにこたえられましたが、その裏には凛としたものを感じました。私の半生での最大の思い出、そしてそこから得た最高の教訓。これをお祝いと感謝の言葉として捧げます。」

社会福祉事業法の制定によって、一九五二年(昭和二七年)社会福祉法人聖ヨハネ会として発足し、当時は岡村ふくが理事長と病院長を兼務していました。
 
三浦岱栄先生が慶応に赴任された後は聖ヨハネ会シスター稲垣忠子が病院管理医師として任命されました。

結核の診療とともに、神経科の開設も桜町病院にとっては大きな使命の一つでした。慶応大学から鎮目医師をはじめとして優秀な医師を派遣していただいたことは患者さんにとって大きな恵みでした。

その後、時代の変遷にともなって、総合病院へと移り変り、その間老朽化した病院の建て替えのために各方面から多大の援助をいただきました。ドイツのカトリ。ク事業団ミゼレオからフリングス枢機卿の取りなしによる絶大なる援助のおかげで建て替え工事が完成出来たことは大きな恵みでした。

一九七三年(昭和四八年)から一九八一年(昭和五六年)まで、岡村ふくの後任として、八年もの長い間、白柳誠一東京大司教に理事長の就任をお願いしていたことは、桜町病院が東京教区司祭であった戸塚文卿師によって設立されたものであること、そして土井大司教がその初代理事長を努められておられたことから言っても自然の成り行きとはいえ、その間のご苦労とご尽力によって今日あることを強く感じます。八王子に設立された知的障害児の施設であった甲の原学院が山梨県に移転し、富士聖ヨハネ学園として発足した当時、資金難に遭遇し、その事業の継続が危機に陥った時にも、多くの修道会、教会関係の方々を始め、各方面からのご協力によって継続することが出来ましたことにも深く感謝しております。。

桜町病院はその後戸塚師の甥である、戸塚元吉院長をはじめ、歴代の病院長、事務長、総看護師長の管理によって多くの困難を乗り越えて現在の、地域に密着した医療機関として発展して来られたことは、感謝以外のなにものでもありません。先人達の残された良き土台の上に、時代の要望にこたえながら、これからも病気で苦しんでいる方々のために真心ある医療活動を続けてゆくことを創立者は望んでいることでしよう。



原文
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創立者 岡村ふくの生涯 12月



恩師聖心会マザー・シェルドン

第三章  病院の創立

「神様はたびたび小さな、つまらないものを通して大きな業をなさいます」と晩年、岡村ふくは度々語っていました。

 戸塚師が残された桜町病院は土井大司教のご意向によって岡村ふくに引き継がれました。経営者としての経験もまったくない一人の女性がその任を引き受けるには、神に対する深い信頼、まことの謙遜が必要でした。そのためにふくはどれほど真剣に祈ったことでしょう。周囲の人々は彼女が度々敬虔に祈っている姿を見かけました。

 桜町病院は各方面の方々の協力をいただきながらスタートしました。戸塚師のかつての友人達、教会関係者、母校の方々、地域の支援等々、どれほど多くの方々の力をいただいたか知れません。当時世間では結核は非常に恐れられていたので、病院の前を通る時には手で口を押さえて息をしないように、出来るだけ走って通り過ぎる…などと言われ、近隣の人々の思いは複雑だったようですが、お米屋さん、八百屋さん、肉屋さん、お豆腐屋さんをはじめ、近所の多くの商店の方々の協力は忘れることがで
きません。

 慶応大学医学部からは、のちに精神科教授となられた三浦岱栄先生をはじめ、若い医師たちが続いて派遣されました。フランスで最新の結核医療について学ばれて帰国されたばかりの精鋭、篠原研三先生の結核に対する診療によって、多くの患者さんが救われました。由利先生、森口先生、菅野先生、長島先生他、小金井近隣の安倍先生、古田先生他、多くの医師たちで、医局はいつも活気に満ちていました。インターンに来ていた一人の医学生は当時をふり返って「何と庶民的な病院だったのだろう。特室も医師も患者も区別なく、病院中みな同じものを食べていたんですよ。そして、とても自由な雰囲気でのびのびと指導していただきました・・・」そんな話を聞くと、当時療養生活を送った方々は、きっとなつかしく思い出すに違いありません。

 開院当時、理事長には土井辰雄大司教、病院長に岡村ふく、事務長には大杜勝利氏が就任しました。

 病院建設のための借金は大体返済出来たとはいうものの、戦中、戦後を通じての、病院経営には、並々ならぬ苦労がありました。食糧事情一つとってみても、これは、日本全体の問題でしたが、現実的に一五〇名の患者さんを抱え、それに加えて六十名の職員と、その家族のことも考えなければならなかったので、病院内の空き地を耕して畑とし、豚、あひる、兎なども飼い、時には畑の草取りを兼ねて、山ごぼう、つめり草、あかぎ、さつまいものつるなどを摘んで皆の食膳をにぎわせるなど、目に見えない苦労が沢山ありました。

 ふくのピアノも当時500円で売り、ナースたちのお給料に変わりました。 今ここに苦しんでいる患者さんのために、ということが行動のすべてでした。 多くの方々から助けていただいたことは、数え切れない程ですが、ある時次のようなことがありました。

 明日支払うお金がなくなってしまい、万策つき果てた時、ふくは途方に暮れて、その悲しい気持ちを誰にも打ち明けることができず、母と慕っていた母校聖心女子学院のマザー・ジェルトンをお訪ねし、心のうちをお話しました。その言葉が終るか終らないうちにマザーはすっと席を立たれ、うしろの戸棚から紙包みを持って来られました。そして静かにおっしやいました。「これをお持ちなさい。このような時のために取っておいたものです。遠慮はいりません。さあ、尊いお仕事のため、あなたの帰りを待っている患者さんの所へお行きなさい。」子供達がおこづかいを倹約して、何かで困っている人々に、といってマザーの所へ持って来たお金を貯めておかれたものとのこと、ふくはその封筒を胸に押し頂いて帰途につきました。

 その年のクリスマスも近づいたある日のこと、大勢の子供達が手に手にプレゼントを持って病院を訪れました。まぎれもない、あの時の生徒さんたちでした。

 ある時は立川のアメリカ軍ベースのチャプレンが大型トラ。クに粉ミルクや小麦粉、缶詰類などを山程積んで持って来てくださいました。その贈り物のお陰で、すべての入院患者さん達をはじめ、病院全体で、朝食のミルク粥を一年以上も頂く事が出来ました。

立川ベースよりの贈り物

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マザー岡村ふくのお母さん


2005年(平成17年)6月6日(月曜日)信濃毎日新聞『美のふるさと 信州 近代美術家たちの物語』より抜粋

岡村政子


イタリアから招かれた画家で工部美術学校
教官のアントニオーフォンタネージ(181882年)
を囲む女子生徒ら。後列左から2人目が政子


まげに和服姿の若い女性が縁台に腰かけ、物思いにふけっている。うちわが傍らにあるから季節は夏だろう。手に取っている新聞の題号は、時事...と読める。慶応義塾の創設者、福沢諭真一八三四上九〇一年)が一八八二年に創刊した「時事新報」だ。

 実は、この石版画は一時事新報」第五千号付録として一八九七年九月一日に発行された。作画したのは、佐久市出身の岡村政子。同郷の夫、竹四郎(一八六一上九三九年)と一緒に営んでいた印刷所「信陽堂」で印刷した一枚だ。
 
「政子は明治期、最先端の情報技術だった石版印刷という職業で夫ととみに身を立て五人の子どもにも恵まれた。近代的な女性の生き方を歩んだ〝先輩〟としても興味深い人です」。政子の展覧会を企画したことがある佐久市立近代美術館学芸員の工藤美幸さん(32)は話す。

それだけではない。政子は日本初の国立美術学校王部美術学校」で学んだ、近代日本美術史上の〝大先輩″でもある。同校は一八七六年、殖産興業を推し進めたエ部省が設置。一八八三年の廃校まで、建築や機械の設計にも欠かせない技術として西洋の絵画や彫刻を伝授した男女共学校たった。政子は、女子の第一期生だ。

 政子は、父が仕えていた岩村田藩(現佐久市)の藩邸(東京・神田明神の付近)で生まれ、岩村田で育った。十六歳の年に上京。この時、既に親しかった竹四郎と 二人連れだったと伝えられている。

上京後、政子は旧藩邸から近い日本ハリストス正教会に寄宿。大主教二コライ(一八三六ー一九一二年)からイコン(聖像画)や石版画の技法を学び、エ部美術学校に推薦された。一方、竹四郎は慶応義塾に入学。福沢の家で書生としても働いた。これが後に、信陽堂と「時事新報」を結びつける機縁となる。
 
福沢のような著名人が、見知らぬ一少年にすぎなかった竹四郎をすぐ迎え入れたとは信じがたい。だが、福沢と信州のつながりを研究している県立歴史館(千曲市)学芸員の村石正行さん(33)によると、政子の生家である山室家には慶応義塾を首席や次席で卒業した姻族がいた。福沢は、そんな〝勤勉な信州人″の一人として竹四郎のことも温かく迎えたようだ。

日本では十九世紀後半から、自由民権運動の高まりなどとともに近代的な新聞が続々と創刊された。スクープ合戦に加えて各紙は、多色刷りの美しい石版画を印刷所に作らせて付録とし、より多くの読者を獲得しようと競争した。その付録を「絵付録」という。 

それが本当に部数の向上につながったのか。絵付録などの産業工芸品を収集・調査している神戸大工学部助教授の今駒博信さん(50)は「当時、芸術的な色彩美を大衆が手軽に楽しめる媒体は版画だった」と指摘する。読者には結構、喜ばれたというのだ。
 
とりわけ石版は、まだ珍しかった西洋絵画の写実的な描法をカラーで量産できる先端技術だった。刃物で木の板を彫る木版とは異なり、平らな石の板にクレヨンや筆で描いた線や面の微妙な風合いをそのまま印刷できる特徴がある。
 
一方「時事新報」も、一八九二年には外国の通信社とも配信契約を結ぶなどジャーナリズムの先端を行く有力紙の一つだった。どれくらいの頻度で絵付録を発行したのか、正確な記録は残っていないが、ほとんど信陽堂が手がけたのではーと今駒さんはみる。

 「他紙の絵付録に比べ、採算を度外視して作ったとしか思えないほど出来がいい。〝高級紙″としてのプライドまで感じます」。政子の技術、福沢と竹四郎の信頼があって生まれた質の高さだろう。政子は、いわば視覚メディアが人心を動かすビジュアル社会の幕開けに携わったのだ。

 「政子は菊の栽培が趣味で、品評会によく出していた。鶏や七面鳥、いろんな鳥も飼っていましたよ」。存命では最年長の孫、太郎さん(82)=東京都=は、少年時代に接した祖母の面影をこう語る。

 「卵がかえるはずの日にひなが生まれてこないと、殻に小さな穴を開けて中をのぞいたりしていた。変なおぱあさんですが、何というか。。。晩年まで探求心が旺盛だったんですね」
 
当時、信陽堂は既に廃業していた。竹四郎が一九〇〇年代末、他社との合併で株式会社に発展させたものの、一九二三年に関東大震災で社屋を失ってしまったのだ。「時事新報」も震災を境に衰え、くしくも政子が世を去った一九三六年に廃刊となっている。
 
だが、政子が竹四郎と二人三脚で近代日本の視覚メディアをリードした功績は揺るがない。もし存命だったらインタビューを申し込み、その「探求心旺盛」な人柄に接してみたかったIそう思わされる美術家だ。
       (植草学)
岡村正子筆 明治時代






川崎市市民ミュージアム
(岡コレクション)









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創立者 岡村ふくの生涯 11月

第二章の続き




戸塚師の亡き後、彼の理想とした信仰共同体を継承することをふくは考えておらず、いつの日か観想的な修道会に入りたいと思っていました。しかし、神のご計画はまったく別のところにありました。そのことについて、ふくは次のように記しています。

戸塚師の帰天二ヶ月後に開院した桜町病院を見て私は心の内で次のように考えました。

「今こそ永年の望みがかなえられて観想修道会に入るときが来たのだ」と。 そこで師を共に手伝っていた戸塚富久とも相談の上、土井大司教様のところへ伺って「桜町病院は出来上がり、何とか運営も続けられそうです。私共のことはご心配なく桜町病院を大司教様が一番よいとお思いになる修道院におあげになってください。」と心から申し上げました。
 
ところが大司教様のお答えはまったく以外にも「それはいけません。あなた (岡村ふく)は聖ヨハネ会を創立して、桜町病院を経営して行きなさい。」ということでありました。

私も戸塚富久も土井大司教様に個人的にお目にかかったのはこれが初めてでしたが、なんともお返事が出来ずそのまま桜町に帰って、数日間祈り、考えました。
 
神様はその時、未来の事についてはすべてを隠しておおきになりましたので修道会を創立するという事が、また病院を経営することの困難さについても私は知りませんでした。私は祈り、考えましたが土井大司教様のお望みに反しても、自分個人の望みを押し通して観想修道会の門をたたく事の方が神様のお望みであるという確信もないままに、自分の望みを捨てて土井大司教のお言葉に従って、出来る限りを尽くすことの方が神のみ旨に従うこととなり、神に光栄を帰する道だと結論しました。

しかし私はこの際、何をなすべきかも知らず、準備としてどんな事をすべきかも知りませんでした。また導いてくださる方もありませんでした。こうしたわけで聖ヨハネ会の直接の生みの親は土井大司教様であったと私は思います。それで師は私にいつも有形無形の援助を惜しみなく与えてくださいました。

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創立者 岡村ふくの生涯 10月

第二章の続き

聖ヨハネ汎愛医院

まだまだ肌寒いある夜の出来事です。真夜中の十二時半頃に聖ヨハネ汎愛医院の玄関のベルがけたたましくなりました。手早く身支度をして玄関に行きましたら、そこには一人の貧しい身なりをした男の人がしょんぼり立っていました。話しによると、この人の職業は井戸堀で「その日は丁度一つの井戸が掘り上がったので仲間同士でお祝いをすませ、遠いところから十二時近くに家に帰りついて声をかけたが、内はしんとして何の音も一つも聞こえず家内の名を呼んでも出てもこないので戸をはずして家に入ってみると、かねてから結核を患っていた家内がうつぶせに倒れていて、呼んでも答えない。結核はきらわれもので、お金もないし、病人が出てから近所とのつき合いもなく、医師にもかかっていなかったが、聖ヨハネ汎愛医院の人達は結核の人に対して大変親切だといううわさを思い出して、飛んで来たんですが助けて下さい」との事。聞く所によれば体は氷のように冷たかったとのことで、司祭館と医院とは離れているし、昼間は教会のお仕事で忙しく、お体の具合も悪かった神父様をお起こしせずに、その人の住所、氏名、道順を詳しく聞き、「すぐ伺いますから」と言って帰っていただきました。そして大急ぎで先ず聖堂に行って力を与えて下さるようにお祈りをし、度胸をきめて、看護婦さんを起こし、ふたりで必要と思われる物を全部用意し、懐中電灯を持って教わった道を尋ねて行きましたが、そこは医院から大分離れた所で、同じような家がいくつも並んでいるところを一軒一軒電灯で表札を照らして探しました。しばらくしてその家がやっと見つかりました。声をかけて見ましたが返事がありません。後で聞いたのですが、さっきの主人は医院の帰りに親戚へ相談に立ち寄ったとかでしばらくしてから帰って来ました。私共は何の返事もないので玄関の格子戸をあけ、狭い靴ぬぎの土間から障子をあけて見ましたら、八畳位の部屋があり、(その奥の小さな部屋には赤ちゃんと三才くらいの男の子が何もしらずに眠っていました。)おそるおそる上がって見ると隅の方に床がひいてあり、病人は床から半身を畳の方へずりだして、その前には血でいっぱいになっている洗面器があり、喀血死していたのです。仰向けに床にねかせて上げようと祈りながら勇気を出して床の上に上がると、布団はびっしょりぬれていて、クツ下に身震いするような冷たさを感じました。死亡時間はだいぶ前らしく、体は硬直していました。恐る恐る、お祈りをとなえながら出来るだけの後始末をして医院に帰った時は、しらじらと夜が明け始めていました。

このような例は他にも度々ありましたが、悲惨な状況の当時の結核患者さんに深く同情を寄せ、どうにかして少しでも霊肉を救いたいと望まれたのが戸塚師でした。 

彼は、資金繰りと、執筆活動、神学校の教授、ローマから依頼されるさまざまな国際的な会議への出席など、それらの激務によって次第に健康を損ね、ふくをはじめ周囲の人々による昼夜を分かたぬ看護にもかかわらず、若くしてその尊い一生を終えられました。


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創立者 岡村ふくの生涯 9月


第二章の続き


では戸塚師と岡村ふくとの出会いはどのようなものだったのでしょうか。
 聖心女子学院のマザースのもとで、語学の授業や後輩たちの洗礼の準備のお手伝いなどをしていたふくは、み旨ならば、聖心会に入会してもよいと考えていました。その辺の事情を聖心会の故マザー岩下きよ子が、ふくの誓願二十五周年の銀祝時に下さった文面から知ることができます。
「私かイギリスで長い年月を送り、帰ってまいりました時には彼女はすでに聖心の高等専門学校を卒業されておられました。
 戸塚神父様が司祭として帰朝され、近くの貧しい病人の方々、ことに結核の患者さんたちのお世話をされておりました時、シスター岡村はその片腕ともなって、看取る人もない悲惨な状況におかれた病人を昼夜看護されたばかりでなく、汚れ物の洗濯から下々のお世話までなさり、人々が目をそむけるようなお仕事をなさるのに感激したことを覚えております。
 その後聖心会に入会を希望され、お荷物まできて、ベッドも用意してございましたのに発病され、長い間のご病気が、ある日ルーマニアから来られた司祭プリンスギカが主の茨の冠のご遺物で奇跡的にいやされました。その後戸塚神父様の目的であった聖ヨハネ会桜町病院のいしずえとなられたことは、神のみ摂理がいかに働かれるかを如実に物語っております。今も茨の冠のお苦しみは絶えることなく、その十字架のもとに聖ヨハネ会の総長としての重い任務を果たされ、いつもおだやかにほほえまれて人々にお接しになるお姿は私ども皆にとって本当の愛のあかし、インスピレーションでございます。」
ここに記載されている出来事は真実だったということを、公表されるのをふくは控えていたようですが、数十年を経てから本人に確かめたところ、はっきりうなずいたと伝えられています。
 岡村家は戸塚師が開いた医院の近くにありました。御成門のふくの生家は関東大震災で全焼し、その後目黒区月光町に居を移したことから、戸塚神父の西小山の教会と近くなり、これがご縁となったことを考えると神の摂理は人智を越えていることを強く感じます。
 はじめは、岩下師が数人のグループのための聖書の勉強と、ふくのためにご聖体を運んで下さいましたが、そのうち、岩下師より依頼された戸塚師が、訪れるようになりました。ふくの家族との交流も深まり、父竹四郎は戸塚師の事業に対しても非常に理解を示し、援助を惜しみませんでした。妻政子とともにカトリクヘの改宗のお恵みをいただくことが出来たのも、両師のおかげと、深く感謝しました。
 健康を取り戻したふくは、戸塚師のたっての望みによって真剣にその事業に身を投じてゆきました。その頃彼女は26才位でした。戸塚師の活動にとって、ふくはなくてはならない存在であることを感じていた母校のマザーは「あなたは戸塚神父様のお手伝いをなさい」と、快くそれをゆるしてくださいました。
 戸塚師の共同体ともいえる医院にはいろいろな人が出入りし、ともに一つ屋根の下に住んでいました。戸塚師の書斎は二階にあり、皆で祈る聖堂、診察室、少しの病室と、地方から戸塚師を慕って上京してきた数人のナースたちの部屋もあり、とくに戸塚師が英国から帰国する際に伴ってきた二人のフランシスコ第三会員のシスターズもいるという状況で、まさにこれらの人々が住んでいる雑居共同体ともいえるような医院を、最初のうちは近隣の人々も奇異の眼でながめ、なかなか患者さんが増えなかった様子が、当時の戸塚師の日記からも、うかがい知ることが出来ます。ふくの思い出を辿るとこんなことがありました。
原本

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創立者 岡村ふくの生涯 8月


第二章の続き


岩下壮一氏とは暁星以来の親友で、その影響力は多大で、前述の英国における文卿の召命の決定へのきっかけも、彼なくしては考えられないことでした。
 「僕のなかで起こる変化は自分自身にもあまり不思議です。岩下君(代父であり、のちの岩下師)は僕に『完全な生活に入れ』という手紙をくり返し、くり返しくれました。僕はその度ごとに、自分の天職は司祭になることではないと返事しました。そしてあまりしつこいので腹を立ててしまいました。」
 帝大医学部を優秀な成績で卒業し、帝大教授になる当時の出世コースを歩んでいた戸塚文卿は、一九二一年(大正十年)、文部省から欧州留学を命じられてロンドン滞在中に、日本の友人にあててこう書いています。
「八月の末に岩下君の言葉にのせられて一週間ほどの予定で、うかうかと英国に遊びに来ました。そしてロンドンから五十マイル離れたコールダフンユという所の修道院にゆきました。そこである人に会いました。これは若い聖女(厳密な意味で)でした。僕の眼は生きている聖徳を見ました。そして僕の耳には主の御声が雷のようにとどろきました。もう万事を捨てねばならなくなりました。僕は二、三年間当地に滞在してのち、日本に帰り、東京にカトリックの病院(神様の家)を建てて、そこで医師としておよび司祭として働くつもりでいます。僕は毎日、僕と一緒に働いてくれる人を下さいと神様に祈っています。これが大体僕の今後の方針です。自分の心は今、最上の歓喜にあふれています。自分の心がまったく神様に帰ったからです。神様は毎日僕に驚くばかりの恵みを注いで下さって、自分は空を翔っているような気がします。福音書の言葉が一字一字光を放って、何事も直さいに僕の心に落ちて来ます。」
戸塚文卿が二十九歳の時のことでした。
 ロンドンで司祭への召命を受け、あらゆる名誉を捨てて、ラテン語と哲学の勉強を始め、パリのカトリック大学神学部での聴講を許され、一九二四年(大正十三年)六月十八日、パリ郊外サンースルピス神学校で司祭に叙階されました。
彼はフランス留学時代に一つの貴重な体験をしています。『ボンサマリタン』(善き牧者)といわれるグループをつくり、『男女の別なく、聖職者、一般信徒の区別もなく、種々の職業、身分の人々が共同で生活』して、キリスト教的理想を求め、それは医療上のミノンヨンとカトリック社会事業とを促進することを目的とするものです。
 戸塚師は司祭になるにおよんで、司祭として、医者として、そして男女の区別なく、自分と共に働く共同体づくりを決意しています。そして帰国後、この理想に従って自分の使徒職を展開していきました。
 叙階の翌年、一九二五年(大正十四年)に帰国、早速東京品川に『聖ヨハネ汎愛医院』を開設し、同年洗足に分院開設、その後結核の保養施設として『ナザレト・ハウス』を開設、その後、千葉九十九里浜に移転、病院組織として『海上寮』と改称されました。さらに目黒に診療所『聖ヨハネ医院』を開設、一九三九年(昭和十四年)、武蔵小金井に『桜町病院』が設立の運びとなりましたがその完成を待たずに、病院の建設中、司祭生活十五年目四十七才の若さで御父のもとに召されました。
 当時はまだ社会保障もすすんでおらず、不治の病として恐れられ、悲惨な状況におかれていた結核患者さんのため、彼は文字通り寝食を忘れて働きました。その献身的な活動に共鳴する人々と共に医療と福祉活動に力を尽くす一方で、「カトリック新聞社」社長の任の他、多くの執筆活動に力を注ぎ、過労のため心臓の疾患があらわれていたにもかかわらず、驚くほどの活動をこなしました。
戸塚師のご両親は、カトリック司祭となって帰国した息子を嘆き、その転向を理解することが出来ませんでした。彼がなぜ、すべてを捨てて司祭になったのか、息子が自分と同様に医学の世界に生きてくれるものと信じていた父としては無理もないことでした。勘当の状態は父の死の直前まで続き、その臨終に際して、父の承諾のもとに洗礼を授けられました。
 父上は今日、息子文卿の遺業の発展を「なるほど」とうなずいておられるに違いありません。
その当時は、医師と司祭の両立は許可されなかったので、戸塚師の場合、教皇の特別なゆるしをいただいて、医療活動を続けることが出来ました。
 生来やさしい戸塚師の心を一番引いたのは、外科患者さんよりも、結核で苦しんでいる人々、特に若い青年達のことでした。経済的にも緊迫している場合など、公園のベンチで寝泊まりする人も多く、入浴も出来ず、風だらけの青年が戸塚師を訪れたこともありました。彼はこうした青年たちを西小山の聖ヨハネ汎愛医院に引き取り、出来る限りのお世話を始めたのでした。
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創立者 岡村ふくの生涯 7月


第二章



出会い・使徒的活動へ



  岡村ふくの生涯を記すには戸塚文卿師について語らねばなりません。
 東京教区の偉大なる司祭、戸塚文卿師なくして今日の桜町病院は誕生せず、また岡村ふくの存在も修道会の創立者とは別な道をたどったことでしょう。
 当時の日本のカトリック教会に市民権を与えた、とまで評された戸塚師とは一体どのような方だったのでしょうか。
  一八九二年(明治二五年)二月十一日、海軍軍医総監を父に十人兄弟の長男として誕生した文卿は、父の勤務地の都合で佐世保の小学校から、一九〇四年(明治三七年)四月東京九段の暁星中学校に入学しました。示田部胤明著・戸塚文卿伝参照)
 暁星で寄宿生活を続けるうちに、他の科目はもとより、フランス語がぐんぐん上達し、四年生には首席になりましたが、先生方は文卿に一つの点で失望していました。それは彼が信仰についてまったく無関心なことでした。
 雪の日には、しばしば校庭の石垣のところに立っている聖ヨゼフの小さな像に雪球をぶつけて遊んでいる姿が見受けられました。ところが、四年生の冬休みに文卿は寄宿から品川の父母のもとに帰って父に会った時、父がなにか急に年を取ったという感じにおそわれ、この父上ともいつかは別れなければならないと思うと、たまらない淋しさがこみ上げてきました。寄宿舎にもどってから、ある晩、べドについてまだ眠れずにいると、突然「僕が今すぐ死んだらどうなるのだろう」という疑問が彼の心に強く起こってきました。それを打ち消すことができず、あまり心配になったので、朝になると急いで代数を教えて下さっていた高齢のセネンツ先生のところに行って、そのことを打ち明けました。「君にも宗教心が芽生えるようになったのです。信仰は神様のお恵みです。これからカトリックの要理を習い、そしてよく神様にお祈りなさい。『求めよ、さらば与えられん』ですよ」と先生はやさしく悟してくださいました。
文卿はこれらの心境を後日、妹の明子に宛てた長い巻紙の手紙に書いています。
「父母すでに老いませりとの感は中学時代より胸に浮かびてわれをなやましたりき。また父上の眼鏡(老眼鏡)かけ給いしとき、いい知れぬ哀感に胸を打たれにき。父上、母上いかに健やかなればとて百年、千年の命は望むべくもなきに、われらのいかに泣けばとて、この日のきたらずにやむべき。御身これを思いて何らの感なきか。僕はかくのごとくにして宗教の門に導かれ候。人死して形、心ともに滅すべきか。父上母上死なれ、われ死し、御身、われらが弟妹亡びて互いに感ぜず、思わず、愛ささざる『無』たるべきか。僕の心は到底かく冷静に観ずること能わず候。かくて僕は、この悲しみを解決せんとて神に信じ永生に信じ始め候。しかして今、系統的にわが公教の一般的神学を研究して、公教においてにあらざれば真に神と真理と永生に至る能わざるものなることを信じ候。」
友達の間で宗教の議論が始まった時、どちらかといえば反対の立場に立っていた文卿は、五年生頃からそのような時、沈思で、口数が少なくなっていきました。その頃文卿は級長をしていましたが、多少友達にボイコッ卜されても、少し位いじめられても、マリア会修士アンリー・アンヘルクロード神父について、フランス語で要理の勉強を続けていきました。
 暁星在学中に洗礼を受ける準備が出来ていたので、卒業前に父に許しを願いましたが、父は承諾しませんでした。その後一高に進学してから文卿は洗礼について真剣に考え続けている思いを、自宅から近い麻布カトリ。ク教会主任司祭のツルペン神父(パリ外国宣教会)のところへ相談に行きました。するとツルペン神父は次のように言われました。「あなたのお父さんは、あなたの肉体上のお父さんです。しかし私はあなたの霊魂上の父です。次の土曜に、代父となる人と一緒にこの聖堂においでなさい。私が洗礼を授けます。お父さんが何か文句をおっしゃりたい時には私が受けましょう。」と。

 このようにして代父には先輩の岩下壮一氏が立ち、文卿はツルペン神父から洗礼の恵みをいただきました。霊名はヴィンセンシオ・ア・パウロの名を選びました。フランスの十七世紀の社会福祉の父と呼ばれた、貧しい人々、弱い立場に置かれた人々のために生涯を捧げた聖人を保護者とした彼が、将来同じような生き方をもって、神と人々に仕えるようになろうとは、神のみがご存じでした。
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創立者 岡村ふくの生涯 6月


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誕生・家庭・信仰のめばえ

今から百年前、両親と兄姉の愛に囲まれて、一人の女の子が誕生しました。
 世の中が戦争や天災、政治の混乱など、生きてゆくことさえ大変な時代に、日本の
医療と福祉を通してキリストの愛を、とくに苦しい状況に置かれている人々にもたら
そうと、生涯を賭けてゆくことになろうとは誰が予測したでしょうか。

岡村ふくは一八九九年(明治三十二年)六月三日東京、京橋で生まれました。
父竹四郎は一八六一年(文久一年)に、母政子は一八五八年(安政五年)ともに長
野県出身で、若い頃に上京し、竹四郎は福沢諭吉の塾生として学び、政子は神田駿河
台のニコライ神学校に入り、寄宿生活をしながら自活し、日本で最初の国立美術学校
(現在の東京芸術大学)の一期生となりました。ニコライ大主教は洗礼を授けて下さ
っただけでなく、政子の才能を発見し、イコンの制作と、当時まだ日本ではめずらし
かった石版画印刷の指導もして下さり、後に竹四郎と政子が創業した印刷業信陽堂(
のちの東洋印刷会社)に対して、沢山の注文を出してその発展を援助し、支えて下さ
った大恩人でした。
 竹四郎の恩師福沢諭吉氏も、当時創設された時事新報の印刷を委託し、初期の資金
難の際には無償で竹四郎の事業を助けて下さいました。
 事業は順調に発展し、大勢の使用人を抱えて、両親はその経営に忙しい毎日でした
が、子供達の教育には特別に力を注ぎ、決して甘やかすことなく厳しく教育しました。
 ある時こんなことがありました。小学生だったふくが自分の用事を使用人の方に頼
んでいると母は即座に「あなたのご用をするために来ていただいているのではありま
せん」と言って、手伝ってもらうことを許しませんでした。
 生後一週間目に洗礼のお恵みをいただいたふくは、幼い頃から、いつも両親に連れ
られて神田のニコライ堂へ熱心に通いました。そして日々の生活を通して信仰は育ま
れてゆきました。
 晩年彼女は次のように話していました。
 「わたしはあの頃、母の腕に抱かれて祭壇から帰る時、イエズス様をお悲しませす
るようなことは決していたしませんように…と子供ながらとても熱心に祈りました」
と。
 すでにその頃からふくの心には生涯をキリストに奉献したいとの望みが芽生えてい
きました。母が復活祭の朝までかかって染めた卵を皆で手に手にローソクの光に照ら
されながら興奮のうちに、おめでとうの言葉をかわした、あのなつかしい光景を、ふ
くは忘れることができませんでした。
 ふくが小学校に入学する頃、父の事業は全盛時代でした。芝公園五号地、御成門の
千坪以上の広い土地に建てられた家は竣工の際、ニコライ大主教に祝別していただき
ました。大きな木の門を入ると、広い通路に砂利が一杯に敷きつめられ、木立の奥に
ある正面玄関を入ると二間続きの玄関の間、隣が洋風造りの応接間と書生部屋、前を
広い廊下がずっと東西に走り、右の手前側に食堂と広い台所があり、さらにいくつも
の客間と家族の団楽のための居間がありました。ベランダのある二十畳以上の広い寝
室は、両親と末っ子ふくの居間兼用になっていました。
 広い窓から太陽の光が一面に差し込む寝室のべ。ドで、幼かったふくは朝起きた時、
そして夜寝る前に神に祈ること、一日のおこないのすべてを神のみ手にゆだねること
を、無言のうちに母から教えられ、その精神は生活のなかに浸透してゆきました。
 鯉や金魚のたくさん泳いでいる池には美しいすいれんの花が咲き、たくさんの樹木
が暑い夏に涼しい木陰をつくってくれました。
 父はいつも誰よりも先に出勤し、職員の先頭に立って働き、母は画家としての名声
よりも家庭生活を大事にし、もっぱら家事に専念していました。野菜づくりと花畑に
精を出し、とくに母の作ったいちじくジャムは子供たちが大好きでした。
 子供たちも年齢に応じていつも家事を手伝い、勉強はその次でよいといった方針で、
生活も質素倹約を重んじて、決して贅沢は許されませんでした。
一番上の姉、こうとは十九才、次の姉よしえとは十六才もの年齢が離れていたので、
ふくは八才違いの兄三郎と、六才違いの兄四郎とよく遊び、いっしょにお堀り端ヘホ
タルを取りに行ったことなどを憶えています。
 やがてふくは泰明小学校へ入学しました。母が四十二歳の時に生まれ、その時あま
り丈夫でなかった母の体質を受けついでか、ふくも生まれた時から、そして小学校へ
入ってからも、しばしば大病にかかりましたが、両親、兄姉たちの愛を一身に受けて、
明るい、元気な子供に成長してゆきました。小学生時代の思い出を当時のクラスメー
トの一人が次のように語っていました。

「信仰厚いご両親様や優しいお兄様方の間で育まれたふく子さんは円満で、るい、可愛いお嬢様でした。当時は洋楽を学ぶ人はまれで、ピアノを弾かのはクラスでは岡村さんぐらいでしたでしょう。丁度三年生のときでした。めて音楽学校出の専門の先生が赴任され、楽譜を用いて唱歌を教えて下さるうになり、小学校で初めての音楽会が催されました。先生と生徒が一体となって独唱、合唱、和洋楽など盛大に行われた第一回目、それはそれは大好評で、以後学校の名物になりました。その時、岡村さんの演奏は申すまでもなく大拍手でした。お宅が芝公園の方に移られた折、一時転校されましたが、間もなくまた戻っていらっしやいましたが、その間の淋しかったこと、再びいらっしやった時の喜びは今でも忘れません。」

 岡村ふくの誓願二十五周年の時、記念誌に寄稿して下さった文章ですが、数十年を
経てもなお失せない、当時のおっとりとしたふくの魅力をうかがい知ることができま
す。
 楽しかった小学校を卒業して、香蘭女学校へと進みました。今日のように塾通いも
なく、また特別に家庭教師につくこともまったくなく、家族の者は成績のよし悪しを
心に留めませんでしたが十二年間を通じてふくはいつもクラスで一番でした。
 その当時女性は女学校を卒業すると結婚の準備期を迎えるのが常で、教員になりた
い人たちが師範学校へ進学することはあっても、今日のように国立の大学へ男子と
っしょに入学することはほとんどありませんでした。
 家事の手伝いは厳しく躾けられ、両親の言いつけには決して背いたことがないふく
でしたが、その内には燃えるような向学心を抱いていました。
 神の摂理は、私たちに一見偶然とみなされる出来事のなかに、計り知れなく深い愛
が働いています。
 ふくが女学校を卒業した丁度その年に、家から近い聖心女子学院に英文科の専門学
校が初めて開校されました。卒業式を控えてのある日、仲の良い友人と二人で学校の
帰り道にふらりと聖心女子学院の門前に立ち寄ったところが、受付におられたマザー
は、二人が入学試験のために来たものと思いこんでしまわれ、どんどん試験場へと案
内して下さったのです。
「ちょっと見学させていただくだけですから……」と説明したくとも、マザーには
日本語がまったく通じず、かといって英語で説明することも出来ないまま、思いもよ
らず入学試験を受けることになってしまいました。
 さあ一週間後に入学許可の通知を受けた時の両親の驚きは如何ぽかりでしたでしょ
うか。このあまりにも急な、そして半ばおかしいような出来事に、二人は戸惑ったも
のの、これらを信仰で受け止めたのでしょうか。
 勉強に熱中しすぎて身体をこわさないこと、家事の手伝いを怠らないこと、この二
つのことを守れるならばという条件で、進学を許してくれました。この聖心女子学院
への入学が、ふくにとって何ものにも代えがたい大きな恵みをいただくことになるは
じまりとは、知る由もありませんでした。
 聖心女子学院での学生生活は、ふくにとってそれはそれは忙しいものでした。なぜ
なら母との約束通り、家事分担の務めを果たしてゆくためには、朝五時前に起きなけ
れば間に合いません。母から頼まれることには決していやと言わないように心がけま
した。
 毎日膨大な量の予習、復習に辞書と首っぴきでの猛勉強でした。日本人だからとい
って、ゆっくり話されることなどなく、マザーの、ものすごいスピードの英語は、ま
るで英国の大学へ入ったようでした。はじめの一か月は聞き取ることも、ノートをと
るのも困難な有様でしたが、二、三か月過ぎると少しずつ慣れてきて、英語で試験の
答案も書けるようになりました。
 少人数で充実した学生生活の中で、とくにマザーズから受けたさまざまの教え、そ
の生き方をもって、ふくは自分か変えられていくのを感じました。彼女たちをあのよ
うに燃え立たせているものは何なのだろうか。あのような原動力はどこから来ている
のだろうか、と。
 遠い昔、母の腕の中で聖体拝領の帰り道、秘かに自己奉献したキリスト、あのお方
のみ教えを宣教するために遠い日本へ派遣されて今、私たちを単に学問のみでなく、
そのキリストヘの愛に強烈に駆り立てて下さる・・・そんな思いがふくの心にふつふ
つと、わいて来ました。
 卒業の年にふくはごく自然のことのようにカトリ。クヘ改宗しました。
 卒業後も学校に残り、マザーの助手として、語学やカトリ。クの教えについての授
業を受け持ちました。
 当時の様子を義姉ゆりが次のように語っていました。
「私か岡村家に嫁した頃に一番おどろいたことは、ふく子さんの日課で朝の早いこ
とでした。毎朝ミサに出られて、そのあと英語の個人教授をして帰られ、母を助けて、
裁縫、洗張り、畑仕事、家畜類の世話、小屋の掃除など、ある時は兎もだんだん増え
て十五、六匹にもなり、寒い時など、さぞ大変だったと思います」と。
 ふくは、戸塚師の働きを助けるために、目黒区月光町の生家を出て、西小山に住み
込むようになりました。そこから時々実家へ帰ることがあったので、当時まだ幼かっ
た姪、初子の目には、家にいる時、いつも手紙や本を読んでいたふく子おばちゃんの
姿が焼きついていました。
原本

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創立者 岡村ふくの生涯


はじめに
   あなたがたがわたしを選んだのではなく、
     わたしがあなたがたを選んだのです。
                                                  (ヨハネ十五の十六)
 今から六十四年前、東京都小金井市(当時東京府北多摩郡小金井
町大字小金井)に木造建築の桜町病院(呼吸器科・精神科)が建ち
まちた。
 当時日本で国民病といわれていた結核は長いあいだ国民死因順位
の首位を占めていました。ひとたび感染すると特効薬もなく、安静、
大気療法、栄養補給等による治療法に頼る以外なく、家族からも見
放され、社会保障も今日のように充実していなかった時代、その悲
惨な状況に置かれていた人々を助けようと、医師であり、カトリッ
ク司祭であった戸塚文卿師は心血を注いで理想の病院の建設のため 
に働きました。
 彼のまわりにはいつも多くの協力者たちがいました。しかし病院
の完成を前に過労のため四十七歳の若さで帰天しました。
 戸塚師が残した事業は東京教区土井辰雄大司教の命によって、岡
村ふくの手に委ねられました。修道会の創立者となることなど考え
てもみなかった彼女は、しばらくの猶予を願いました。個人的な望
みを捨て、その命に従うことが神の御旨と悟った時、彼女はその任
を引き受けました。多くの才能を有しながら表立つことが嫌いな彼
女でしたが、意に反して次々与えられる荷は重いものでした。いつ
も祈りの中で模索し続けた日々でしたが、ひとたび神のご意志とさ
とった決断に際しては、勇敢に立ち向かって行きました。
 教区司祭戸塚文卿師によって誕生した桜町病院は、岡村ふくおよ
び多くの協力者の手によって成長していきました。
 二十一世紀を迎えた今日の日本は、医療・保健・福祉の統合の実
現とともに、病気、高齢他、困難な状況に置かれている人々への配
慮は、当時とは比較にならない程に進歩しました。
 貧困の中でも屈することなく、病気との戦いを励まし力づけ、一
人一人の病床の枕辺に、主のよき便りを運ぶ彼女の姿勢は、その晩
年に至るまで変わりませんでした。
 すべてが崩壊されてゆく戦時中、一九四四年(昭和十九年)六月
に東京教区大司教の認可のもとに修道会創立の許可がローマから届
きました。
 桜町病院の創立者である戸塚文卿師、修道会の創立を望まれた土
井枢機卿のご意志を継いで、祈りのうちに、その実現のためにひた
むきに生きた岡村ふくの生涯をふり返り、あふれる程の神の恵みに
感謝を捧げながら伝記をまとめました。
       平成十五年十月十八日
            桜町病院創立記念日に
               福音史家聖ヨハネ布教修道女会
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