聖ヨハネ会St. John's Congregation

福音史家聖ヨハネ布教修道会The Missionary Sisters of St. John the Evangelist

社会福祉法人聖ヨハネ会障害者地域生活支援センターの改築工事の起工式 2014年7月25日

社会福祉法人聖ヨハネ会障害者地域生活支援センターの改築工事に当り、7月25日小金井市梶野町5-8建築敷地内にテントを張って起工式が執り行われました。 司式は、カトリック小金井教会 主任司祭 ヨセフ∙ディン師でした。

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カトリック府中教会に於てのDVD観賞会

去る7月6日(日)カトリック府中教会に於いてDVD「富士聖ヨハネ学園の歩み」と題して、観賞会と茶話会がマウリッチオ神父様のご快諾を頂き、聖ヨハネ会ススターズによって行われた。 AM8:00とAM10:00のごミサ後、上映会には合計約80名程の方々が参加して下さった。
 
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2014年6月富士聖ヨハネ学園の自然と花



 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、 体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、 倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」
(マタイ6章25節‐27節)
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2014年6月富士聖ヨハネ学園の旅



6月17日~19日迄、職員にDVD「富士聖ヨハネ学園の歩み」を上映するため忍野を訪問しました。学園は改築工事が進んでいます。又、富士北麓支援センターが出来上がり、利用者さん達はいろいろな作業をしたり、ギターを弾きながら楽しそうに歌っている方もあり軌道にのっていました。工事を撮影しながら自然をよく味わいましたが、残念ながら富士山は顔を出してくれませんでした。
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2014年6月8日(日)聖ヨハネ会70周年記念日の交流会



6月8日(日) 11:20a.m.~ カトリック小金井教会の方々との交流会が行われました。

梅雨に入り雨模様にも関わらず、聖ヨハネの兄弟姉妹会の方々も多数来て下さり、参加者は約100名でした。前日、フランスから帰国した方が、時差がありお疲れにも関わらず駆けつけて下さり、その熱意に感激いたしました。

総長のあいさつの後、DVD「富士聖ヨハネ学園の歩み」を上映し、その後、展示してある富士聖ヨハネ学園の写真を見ながら、茶話会をいたしました。


DVDの間には、笑い声が響き、和気あいあいとした雰囲気の中で恵みの時を過ごすことができましたことを感謝いたしております。
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2014年5月16日(金)~18日(日)召命黙想会

2014年5月16日(金)〜18日(日)まで「聖母マリアに倣って〜主の招きに応えて歩む
道〜」というテーマで本会の召命黙想会が聖霊会黙想の家(小金井)にておこなわれま
した。遠方から参加される方もいたので天候が心配されましたが、晴天に恵まれまし
た。参加者は4名と、準志願者、修練者、スタッフ等含めて10名の参加となりまし
た。指導はカルメル会・福田正範神父様でした。5月は聖母月であり、マリア様が大
天使ガブリエルからお告げを受けた後、エリザベトを訪問される福音箇所の講和から
黙想会が始まりました。神父様の講和、ミサ、個人面談、最後の日にはヨハネ会シス
ターズの入会に至った召命物語や参加者の今回の黙想会の感想、信仰体験などの分か
ち合いが行われました。
3日間という短い時間ではありましたが、福田神父様の熱心であたたかなご指導のも
と、聖霊会黙想の家の落ち着いた祈りの雰囲気も手伝って、参加者の方々がゆったり
とくつろいで神様との対話を深めていらっしゃるご様子でした。
ご指導頂きました福田神父様、素晴らしい祈りの雰囲気を提供して頂いた聖霊会黙想

の家のスタッフの皆様に心より感謝申し上げます。






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上五島長崎の巡礼 2014年5月12日(月)~15日㈭



上五島長崎の巡礼の報告。

 2014年5月12日(月)~15日(木)小金井教会の司祭、信者さんと共に教会の建物だけでなく、ここに根差した信者さんの信仰の心髄豊かさ、命にかけても信仰を喜んで守り通す心に触れて実り豊かな巡礼になることを願った。
信者の高齢化が進む中にも聖堂はきれいに掃除され花が飾られ、マリア様のご像も大切に飾られ、お庭も整備され、ルルドも立派に作られ、信者の方の神様に対する尊敬と教会に対する愛が感じられた。

一日目。

  羽田空港から35人ANAで福岡へ。福岡からバスで佐世保港へ。雨。波が高いのでフェリーで上五島の有川港へ。
巡礼開始。悪天候のため仲知教会、江袋教会は抜かした。

青砂ケ浦教会

バスで直行。ミサ。内陣との仕切りが残っていた。鉄川氏による初期のレンガ作りの教会で現在のものは3代目との事である。教会、建物は国宝。どの教会も貧しい信者さんが漁業などで夜働いて得たお金でレンガを買い、昼間は女性もレンガ3枚位を背負って高いところにある土地に、教会建設のために運んで働いたそうです。教会建築の先駆者鉄川与助氏(設計者)が支払いの日にここは貧しくお金は払ってもらえないだろうと思っていたら全額払ってくれたとの事。しかしそれは小銭ばかりだったとの事です。両替するすべもなかったでしょうが、その話は私の心を一番打ちました。苦労に苦労を重ねて建てた教会、まさに彼らの信仰と血と汗の賜物であると思います。鉄川氏が手掛けた教会は織り上げ天上で意匠があり、頭ケ島教会は信仰→ざくろetc.中の浦教会では椿、ミサが終わったら小金井教会に奉仕に来ている神学生のご両親がかんころ餅をお土産に持って来て面会に来てくださった。消防署に努めているが今日は雨で火事がなかったのでと二人で面会に来られたとの事。遠く離れた子供を思う親心が感じられた。

二日目晴天

鯛の浦教会
頭ケ島教会
(ミサ)迫害が終わって再び島に戻り住んだ信者たちが自ら切り出した岩砂を積み上げて作った全国でも珍しい石造りの教会。構造と意匠が一体となった数多くの教会のひとつ。祭壇、柱などに白百合15人の信者の頭が流れてきたとの事。
矢堅目本舗(塩の生成を見せてもらった)買い物

大曽教会
御心のご像八家計のドーム型の鐘楼や色の異なる二種類のレンガなどに特徴があります。-がある。(クローバー)→中ノ浦教会(椿)マリアにささげられた教会。
土井ノ浦教会→奈良尾港ジェットホイルで(神学生のお母さんが送りに来てくださった。)→長崎港へ→ホテルモントレ→希望者だけ世界三大夜景を見に行く。長崎、香港、マカオ

三日目 雨

外海地方のキリシタンの里は、長い間村全体でキリスト教を守った。最近まで隠れキリシタンが生き続けた。教会は礎や土台と呼ばれている。霊的な生きた石と呼ばれて、この土台の上に私達は建てられた、霊的な生きた石と言われるキリストを土台としなければ我々はその住まいとして建てられることはない。雨の中での巡礼でした。

神の島教会

どの教会も高いところにあり白い教会の階段を登るのは手すりがついていても大変でした。信者さんはミサ毎にこの階段を登ることを考えたら弱音をはいてはいられないと思いました。グループーの責任者の方に助けられて白い教会にたどり着いたが、残念ながら扉は閉まっていました。浦上、大浦教会のほかは何処の教会も靴を脱いで上がりました。

 ドロ神父の墓出津文化村(ドロ神父記念館→授産院など)→出津教会(ミサ→交流会を兼ねて昼食)この教会から司教様、枢機卿様、司祭、シスターが数多く出ている。家族や周囲の信仰と環境がそのような聖職者を出す原因だったのではないでしょうか。→黒崎教会遠藤周作文学館→ホテルモントレへ

 ドロ神父様がこの外海の地方のためにいかに尽くしたかは、島を結ぶ立派な三本の橋がフランスの国旗の赤青白で塗られていることにも人々の感謝の気持ちが表れていると思う。国道も初めは神父様が作った道が公道、県道になり国道になったとの事である。

四日目
 
 日本26聖人記念館→聖コルベ記念館→浦上天主堂(被爆したマリア様の頭のご像がある小聖堂でミサ)→カトリックセンター昼食→如己堂(永井博士記念館)自分も原爆でやられながら人々のために働きつくし1951年5月1日に亡くなられました。→原爆記念館→爆心地公園→平和記念公園→大浦天主堂(私達の信仰の先祖たちは禁教令の中で、命がけで生きてきたか、250年の潜伏時代も、今のための神のご保護と摂理があったと思う。プチジヤン師に「私たちの心あなたと同じです。サンタマリアのご像は何処。」と聞いた隠れキリシタン。その時のプチジャン師の驚きと喜び、感謝はどんなものであったでしょうか。きっと感激のあまり震えが止まらなかったのではないでしょうか。どの教会もサンタマリア様のご像が美しく飾られているのも彼らの感謝と信仰の表れではなかったでしょうか。

 信仰の先祖たちの後をたどり、今私たちがいただいている信仰の源泉をたどり思いを新たにしました。あまりに多くの教会を巡礼し何処かこんがらかってしまったところもあります。

 神父様がご一緒で毎日ミサがありお恵みでした。

 教会の皆さんとご一緒させていただいたこと、教会の一員として嬉しかったです。

 企画~お世話まで綿密になさってくださった役員の方にも感謝です。


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2014年6月8日 創立70周年記念日

聖ヨハネ会創立記念行事



内容

•     dvd  観賞(42分)(富士聖ヨハネ学園の歩み
 •     展示会
皆様お誘い合わせの上
ぜひご参加くださいますように。


”富士聖ヨハネ学園の歩み”というDVDから



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修練院のハイキング

 


ハイキングへ行ってきました。 先日、小金井市野川から調布市深大寺までの水をたどるハイキングへノビシアの皆さんと行ってきました。 すっかり春らしくなった陽気を心身ともに感じながら、春の息吹を感じさせられる木や草花を愛でつつ、気持ちのよい汗をかきながら歩きました。 深大寺では、かぐわしいそばの香りがながれ…おいしいものも少し?頂いて、散策を楽しみつつ、疲れた足を鼓舞して帰路につきました。 神さまの創造のみ業に賛美と感謝を捧げる一日となりました!
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4月26日(土)のお墓参り



「4月26日(土)は本会の創立者、マザー岡村ふくの命日で、帰天32周年に当たり、
墓参をいたしました。

場所はカトリック府中墓地で、16名のシスターが参加しました。」
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オーストラリアを旅して

オーストラリアを旅して



3月中旬から4月初めにかけて、オーストラリアへ姉妹のご家族を訪ねて行ってきました。

オーストラリアの面積は日本の20倍、人口は約5分の1ですから、広大な土地に人がまばらで、車も何十キロもノンストップです。羊や牛がのんびりと草を食み、休んでいます。ちなみに、牛は1日のうち8時間食べ、8時間休み、8時間反芻しているそうですが、ゆっくりとしたペースにほっとしました。
夜は、満天の星・・・本当に素晴らしく、星が降ってくるようで、神様の創造のみ業を讃美しました。



メルボルンにあるグレートオーシャンロードは、岩の列柱が12個あるところから、キリストの12使徒になぞらえて「12使徒 The Twelve Apostles」と名づけられましたが、現在では壊れて7個になっているそうです。素晴らしい景色に感動しました。




シドニーのカテドラルで、午後1時にミサがあるというので与りに行きました。聖堂の中の御像は、十字架上のキリスト、イエス像、マリア像、天使などすべての像に紫の布がかけられ、ご受難をあらわしているのが印象的でした。復活祭にはすべての布が取り払われ、その喜びをなお一層感じるのではないかと思いました。その日は平日でしたが、多くの方がミサに与っておられ、共に感謝と祈りを捧げ帰途につきました。

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世界奉献生活者の日 2014年2月2日




1997年ヨハネ・パウロ2世前教皇様は2月2日の「主の奉献の祝日」を「世界奉献生活の日」と定められました。

その目的は、
1。聖別奉献の生活という比類ない賜物を与えてくださった主を賛美し、感謝すること。
2。すべての神の民が聖別奉献生活の価値を良く知ること。
3。奉献された人々がともに集まって祝い、教会と全世界における奉献生活者のかけがえのない使命について、いっそう活き活きとした意識を持つためです。

 今年も、聖体賛美式の中で、聖別奉献生活という尊い賜物を与えてくださった神を賛美し、共に感謝を捧げました。

2014年2月2日 (日)午後7:00
場所:カトリック小金井教会
司式:ヨセフ∙ディン師


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総長が代わりました

11月4日 9:00a.m.~ 総長選出のため、幸田和生司教様司式による聖霊のミサが行われ、Sr.池田順子が選出されました。
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11月2日の墓参

11月は死者の月で、2日(土)11:00~府中墓地で教会の亡くなられた信者さんの納骨式がありました。帰天された方々の為永遠の安らぎを願い、讃美歌を歌い、創立者を始め姉妹たちの為にも心を合わせて祈りました。
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ヨハネ祭に寄せて 2013年10月13日




 今年のヨハネ祭は「東日本大震災支援」というテーマで開催された。
 長い期間を掛けて準備された多くの人々の心には、2年半前の3月11日に起きた未曽有の大震災と言われた、あの凄い光景がまざまざと映っていたに違いない。
 復興の一助になればと、そして、被災された人々の心に希望の灯が点されるようにと....。そんな想いが天に通じたのか、澄み渡る紺碧の空が輝いた。私たちの心にも輝いた。
 バザーのテーマにのっとって一円でも多くの売り上げを送りたいと、そんな気持ちが弾みを生み、お客様方に届いたのか、売り手と買い手の心が一つに結ばれ、食品も、衣類も、雑貨も飛ぶように売れた。
「これ下さい。」「有り難うございます。」と交わす言葉の裏には、亡くなられた方々、今だに行方不明になっている方々の霊を弔い、ご家族の方々への励ましがこだましていた。
 ヨハネ祭にご協力下さった多くの方々に感謝いたします。
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清瀬聖ヨハネケアービレッジ・中清戸と清瀬聖ヨハネ支援センターの開所式 10月2日




(福)聖ヨハネ会 障害者地域生活支援センターが、知的障害者のグループホーム
「清瀬聖ヨハネケアービレッジ・中清戸」(14名定員)、及び日中活動の場「清瀬聖ヨハネ支援センター」(20名定員)を、10月1日より開所致しました。 
聖ヨハネ会障害福祉部門の東京地区事業として、山梨の都外施設「富士聖ヨハネ学園」と連携しながら利用者さんたちの地域生活への移行を進めており、今回10名の方達が学園から引っ越して参りました。 又、市内からは4名の方が入所されました。
10月2日、清瀬カトリック教会主任司祭、伊藤敦神父様の司式により、両事業所の
建物の祝福と開所式を行いました。 あいにくの雨天にも関わらず、清瀬市長はじめ、お世話になりました沢山の方々にご列席頂き、利用者さん、ご父兄、職員一同 共に、これからの生活を、心から感謝し祝うことができました。
障害を負いながらも懸命に生きている利用者さんたちが、一日も早く新しい生活に
慣れ、清瀬のホームが安らかな我が家となるよう、又、日中活動の場では、彼らが持てる力を精一杯発揮し自立した生活を送れるよう、一同 全力を尽くし支援して参りたいと存じます。
 これからも、皆様のお祈りとお支えをよろしくお願い致します。
                            感謝の内に
                                         2013年10月15日



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2013年の誓願式後の祝賀会



私たちの一人の姉妹が修道誓願60周年を、三人の姉妹が50周年を、一人の姉妹が25周年を祝い、また、一人の姉妹は有期誓願を宣立いたしました。
これがひとえに主の御慈しみと皆さま方のあたたかいお励ましのおかげと心から感謝いたしております。今後とも皆さまのお祈りとご指導をお願い申し上げます。
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福音史家聖ヨハネ布教修道会の誓願式 2013.10.5


主司式 岡田 武夫 東京大司教

第三誓願    シスタールチア    桑葉  睦子

銀  祝    シスターコンソラータ 中村  喜美子

金  祝    シスターアナスタジア 渡辺  斐子

金  祝    シスターミカエラ   長谷川 嘉

金  祝    シスターゴレッティ  佐久間 陽子

ダイヤモンド        シスターヨハンナ        川久保 林子
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2013年の奉献式・誓願更新式


奉献式・誓願更新式 
聖体賛美式   
2013年10月4日(金) 午後7:00 
司式: ヨセフ・ディン師
修練期:ノエラ・ドイラ
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祈りの集いが行われました。



    先日9月13日(土)の13:30~祈りの集いが小金井の本部修道院にて行われました。
    毎回、主日(翌日)の福音をレクチオ・ディヴィナという深読法を用いて味わい参加者で分かち合いをしています。
 今回は大型の台風が日本列島を直撃し横断しようとしている最中ではありましたが、一番遠方の方で北海道から参加してくださった方がいらっしゃいました!
参加者6名での家庭的で和やかな雰囲気の中、みことばから頂く恵みを味わい、喜びと感謝のうちに終えることができました。
 

『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』
                                 *今回の福音箇所  ルカによる福音  15:1-10
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カトリック府中教会(教会学校)桜町聖ヨハネホーム訪問ボランティア




先日97日(土)、カトリック府中教会の教会学校関係者による桜町聖ヨハネホーム(在宅サービスセンター)への訪問ボランティアが行われました。
 当日は、リーダーさんを中心に6名の参加となりました。少人数でのアットホームな雰囲気の中、藤井施設長による事業の説明があり、園内の見学案内をして下さいました。
その後、実際に居室への訪問や、入所者の皆さんが使用している車いすの空気入れのボランティア等をさせて頂きました。
 ヨハネホームでの活動後、隣接している桜町病院の聖堂にてお祈りをし、昼食はヨハネ会本部修道院にて分かち合いをしながら頂き、楽しいひと時を過ごしました。   神に感謝!!
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Mgr.V.Ghikaの列福式 8月31日






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モンセニョール・ウラジミール・ギカ師の列福


モンセニョール・ウラジミール・ギカ師の列福
(ギカ師は2013年8月31日に列福され、福者となられました。)

福者モンセニョール・ウラジミール・ギカ(18731954)はルーマニアの共産政府牢獄で殉教した司祭です。福者は使徒、神秘家、慈善・福祉事業家、芸術家でもありました。桜町病院の創立者戸塚文卿師は、留学先のパリで福者と出会い、大きな感化を受けて帰国し、福者がパリで創立された「聖ヨハネの兄弟姉妹会」という祈りと愛の共同体である宣教援助会を日本でも創ろうと、その構想を持ち帰られました。これが聖ヨハネ会のルーツです。福者は2度訪日され、聖ヨハネ汎愛医院と西小山教会で活躍中の戸塚師と再会され、西小山教会で福者がキリストの茨の冠の一片によって信者を祝された一瞬に歩行困難であった岡村ふく(本会創立者)の足が突然治ったと言われています。わたしたちはギカ師の列福を祈り続けていましたので、大きな喜びのニュースとなりました。

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富士聖ヨハネ学園の改築工事の起工式 2013年8月8日

富士聖ヨハネ学園の改築工事に当り、8月8日学園の中庭にテントを張って起工式が執り行われました。 司式は、カトリック富士吉田教会 主任司祭 森田満義師でした。
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第37回富士聖ヨハネ学園祭開催



7月21日(日)山梨県忍野村にある富士聖ヨハネ学園http://www.seiyohanekai.or.jp/fuji/ にて第37回富士聖ヨハネ学園祭が開催されました。
 
   当日は小金井市桜町の本部からシスターズ、関係者含め14名が伺いました。日差しも強く、夏らしい気温となりましたが、東京とくらべ湿気もなく日陰に入ると涼しく過ごすことができました。
 
   模擬店も、ヨハネ学園以外に近隣地域から多くの出店があり、購入するのに目移りしてついつい財布のひもがゆるんでしまいました。東京からは聖イグナチオ教会の支援グループの皆さんも出店して下さっていました。
 
   ヨハネ学園の売り場では、元気な学園手作り野菜(ねぎ、ニンジン等々)が売られていました。恒例の園生さん手作り食器も健在でした。
 
   ステージでの出し物も充実しており、園生さんたちの和太鼓は圧巻でした!!
参加しているお一人お一人が楽しそうに過ごされており、神様の恵みと祝福を感じる素晴らしい一日となりました。
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年の黙想 2013年


      6月14日〜23日 本会主催の黙想に17名の姉妹が与りました。

            指導 : イエズス会 アモロス師
            場所 : 聖霊会黙想の家

      たくさんの小鳥が庭で水浴びをしたり、緑豊かな環境の中で恵みの
      時を過ごす事ができ、感謝しています。

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福音史家聖ヨハネ布教修道会の2013年の創立記念日

「カトリック小金井教会の皆様との交流会」

 6月8日、本会は創立69周年を迎えました。創立記念行事として、今年は高齢福祉部門に光を当て、「桜町聖ヨハネホームと高齢者在宅サービスセンター」の歩みと事業の展開、そのもとになっている創立の精神を紹介するようなDVDを新しく作り、6月9日の10時のミサ後に小金井教会の皆さんをお招きして、観賞会、展示会、茶話会を行って分かち合いました。これが盛会となったことを感謝しております。職員の方々には、このDVDが原点に帰る良い機会になって、良かったとおもいます。
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福音史家聖ヨハネ布教修道会創立記念日 2013/6/8

福音史家聖ヨハネ布教修道会創立記念日の行事 2013/6/9(日曜日)

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2013年の巡礼










シスター渡辺斐子

信仰年にあたり。「諸宗教への理解を通して自らの信仰を深めるために」というテーマで小金井教会では春の都内一日巡礼が行われました。神父様の祈りで出発し、イスラム寺院、東方正教会・ニコライ堂をめぐり神田教会でミサを奉げて小金井教会に戻りました。



東京ジャーミーイスラム寺院とニコライ堂では丁寧な説明がありました。私にとっては何処も始めてのところなのでそれぞれの素晴しさに感動しました。イスラム寺院は先入観がありましたが神様に対する畏敬を表すために素晴しい装飾を惜しげもなく使っているところに彼らの信仰の一端を見ることが出来たように思いました。正面の矩形にしるしのある壁は礼拝のときにメッカの方角を指しているということで、その方向に向かって祈るのだそうです。

美しいトルコブルーの混じったじゅうたん、ステンドグラスやシャンデリア、外観もトルコ風で日本にいながらも異郷にいるような思いになりました。彼らの信仰心の強いことは素晴しいと思いました。入堂の時には女性はスカーフで髪を隠してくださいと指示がありましたシスターはベールをかぶっているのでそのままで大丈夫でした。私は学生時代にこの寺院の建替え以前の塔の先端が見えるところを通りましたので懐かしかったです。行ってみたいと思っていたことが60年もして実現して嬉しいでした。帰ってからイスラムについて案内書を読み直したりインターネットで調べたりして認識を新たにしました。スンニ派シーア派など争いのことばかり報道されて本来はもっと穏やかな宗教なのですね。

昼食後ニコライ堂を訪問しました。ここも聖堂は大きく、きれいで荘厳でした。皆さん長い典礼の間中たっていらっしゃるので椅子は補助椅子程度でした。説明してくださった神父様が私に椅子を貸してくださいました。あちこちにイコンがあり親しみを感じました。その前にローソク立てがあり各自でローソクに火をともして祈る姿が見受けられました。あちらの説明書には正教会からカトリックが分かれたように図解してありましたが私達の考えとは違いました。

最後は日本再宣教の出発点となった130年の歴史のある神田教会を訪問しました。主任神父様の説明がありました。最初の司教様と神田教会について説明がありました。現在のカテドラルができるまでは東京大司教区の司教座聖堂だったとのこと。赤色を基盤とした100枚もあろうかと思われるステンドグラス、土井大司教様のお座りになった司教座の椅子、聖フランシスコザビエルの骨の一部などのご遺物もありました。ミサはディン師により挙げられました。

終わりに小金井教会で感謝の祈りを捧げました。シンプルなこの教会は心が落ち着くな―と感じました。

三つの教会を巡礼していろいろ感じましたが、教皇様がおっしゃったように、「三重の輪が互いに理解、愛と祈りの中でぴったりと噛みあって、初めて世界の人々すべてに平和がもたらされる」。とのお言葉が心に深く残りました。


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社会福祉法人聖ヨハネ会本館の竣工式


社会福祉法人聖ヨハネ会本館の竣工式 from Seiyohanekai on Vimeo.




桜町病院の隣接地に聖ヨハネ会本館が完成し、4月12日 竣工式及び感謝式がおこなわれました。ディン師司式により、建物の主区別が行われ、そこに住む人々、職員の上に神の恵みと祝福を祈りました。

本館へは、法人本部、保育園(職員の子供)、高齢者の為の住宅があり、保育園の子供たちは、明るく夢いっぱいの雰囲気の中で大喜びで過ごしています。
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東日本大震災ボランティア体験報告

シスターファウスチナ 漆原めぐみ
米川ベースの祭壇

仙台駅にて

歌津地区泊浜メカブ作業

米川ベース入口

この度、震災2年目にあたる3/3日~3/6まで貴重なボランティアの体験をさせていただきました。私たちが目指すところは仙台教区サポートセンター(カリタスジャパンの米川ベース)です。派遣される南三陸町は、2011年3月11日に発生した東日本大震災により甚大な被害のあった地域です。復興が遅れているといわれている場所です。


朝、東京を出て米川ベースに到着したのは夕方でした。東京より5度低いという前情報でしたが、情報どおり東北の寒さを感じました。

地理的に仙台市よりバスで乗り継いで行く交通の不便さがあります。それが復興のスピードに影響を及ぼしているのではないかと思われました。

○南三陸町災害ボランティアセンターの活動時間 9001500(冬季時間)
745米川ベース出発→3040[]→南三陸町災害ボランティアセンター集合
→団体ボランティア、個人参加の方々の人数を揃えてその日の派遣先へ

私は2日間、南三陸町歌津地区泊浜に派遣されました。震災より2年経ち、建築物の目の前の瓦礫の撤去のめどが立ったので、これからの主な支援は地元の方々の生活の糧となる支援をしてゆく必要があり、漁業産業を盛り立てて行く事が重要であるとの事でした。

地場産業である若布の収穫期は5月まで続きます。浜辺の仮設作業所で私たちボランティアは、早朝地元の漁師さんが海より引き上げためかぶの出荷用の作業をしました。

その日収穫されためかぶの作業が終わると,塩蔵済みの若布を、小分けにし、束にします。そして芯抜きという作業を行います。若布は繊細で破れやすく慎重に扱わなければいけません。一つ一つが地元の収入減になるのです。丁寧に一生懸命にやりました。

   初めてのことで戸惑うこともありましたが、地元の方が親切に教えてくださりすぐできるようになりました。

作業をしながら地元の方々、南は鹿児島、北は北海道のボランティアの方々と心の交流を深めることができました。10代から70代と年齢も幅広いものでした。「神の国」を目の当たりにしているようでした。

地元の漁師さんが作業中に「海はみ~んな、持っていっちまった…。でも、必要なものもくれる。やっぱり海は恨めないな…。でも恨んでいる奴もいる…。皆、いろいろだな~。」と。

作業している泊浜は目の前が海で、今でも危険区域に指定されています。今でも恐れの為に浜辺に作業に来られない人もいるとのことです。見渡す限り、すべてが流されていました。

わずかな土台に家を建てた人以外、今でも新しく家を建てることは許可されていません。

 ここに生き続ける人たちは今でも危険と隣り合わせで生きているのです。海から逃げずに留まり続けているのです。そのような真摯な生きる姿に心を打たれ畏敬の念を覚えました。そのような危険と隣り合わせだからこそ、人々は支え合い励まし合って明るく、与えられた一日一日を誠実に生きているように感じました。

仮設作業所を後にする時、漁師さんから「本当にありがとう。またいつでもいらっしゃい。僕たちはいつでもここにいるから。」と笑顔で見送ってくださいました。

これからも、被災地の現状を忘れずに心に留め、一人一人と繋がっていきたいと思います。

皆様方のお祈りに支えられ、貴重な体験をする機会が与えられました事を心から感謝いたします。ありがとうございました。

参加者 
                                  シスター ロザリア    倉田弓代
         シスター コンソラータ     中村喜美子
         シスター ファウスチナ     漆原めぐみ
         志願者          ドイラさん

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世界奉献生活の日 2013年2月2日

「テーマ:「信仰年」に、より深い奉献生活を」

ことばの祭儀と聖体賛美式

1997年ヨハネパウロ2世前教皇様は2月2日の「主の奉献の祝日」を「世界奉献生活の日」と定められました。
その目的は、1.  聖別奉献の生活という比類ない賜物を与えてくださった主を賛美し、 
        感謝すること。
      2.  すべての神の民が聖別奉献生活の価値を良く知ること。
      3.  奉献された人々がともに集まって祝い、教会と全世界における奉献生
            活者のかけがえのない使命について、いっそう活き活きとした意識を持
        つためです。

 今年も、聖体賛美式の中で、聖別奉献生活という尊い賜物を与えてくださった神を賛美し、共に感謝を捧げました。
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横浜天主堂献堂・日本再宣教150周年


11月24日(土)、横浜教区は、横浜天主堂献堂・日本再宣教150周年をむかえ、それを記念する講演会と感謝のミサが行われました。横浜教区の、神奈川県、静岡県、山梨県、長野県の各教会から、4,000人以上の信徒たちが集まりました。

感謝ミサの中で祭壇の上に並べられた陶器のカリスとチボリウム(160個)は、富士聖ヨハネ学園の利用者が作りました。



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マザー岡村ふくのお母さん


2005年(平成17年)6月6日(月曜日)信濃毎日新聞『美のふるさと 信州 近代美術家たちの物語』より抜粋

岡村政子


イタリアから招かれた画家で工部美術学校
教官のアントニオーフォンタネージ(181882年)
を囲む女子生徒ら。後列左から2人目が政子


まげに和服姿の若い女性が縁台に腰かけ、物思いにふけっている。うちわが傍らにあるから季節は夏だろう。手に取っている新聞の題号は、時事...と読める。慶応義塾の創設者、福沢諭真一八三四上九〇一年)が一八八二年に創刊した「時事新報」だ。

 実は、この石版画は一時事新報」第五千号付録として一八九七年九月一日に発行された。作画したのは、佐久市出身の岡村政子。同郷の夫、竹四郎(一八六一上九三九年)と一緒に営んでいた印刷所「信陽堂」で印刷した一枚だ。
 
「政子は明治期、最先端の情報技術だった石版印刷という職業で夫ととみに身を立て五人の子どもにも恵まれた。近代的な女性の生き方を歩んだ〝先輩〟としても興味深い人です」。政子の展覧会を企画したことがある佐久市立近代美術館学芸員の工藤美幸さん(32)は話す。

それだけではない。政子は日本初の国立美術学校王部美術学校」で学んだ、近代日本美術史上の〝大先輩″でもある。同校は一八七六年、殖産興業を推し進めたエ部省が設置。一八八三年の廃校まで、建築や機械の設計にも欠かせない技術として西洋の絵画や彫刻を伝授した男女共学校たった。政子は、女子の第一期生だ。

 政子は、父が仕えていた岩村田藩(現佐久市)の藩邸(東京・神田明神の付近)で生まれ、岩村田で育った。十六歳の年に上京。この時、既に親しかった竹四郎と 二人連れだったと伝えられている。

上京後、政子は旧藩邸から近い日本ハリストス正教会に寄宿。大主教二コライ(一八三六ー一九一二年)からイコン(聖像画)や石版画の技法を学び、エ部美術学校に推薦された。一方、竹四郎は慶応義塾に入学。福沢の家で書生としても働いた。これが後に、信陽堂と「時事新報」を結びつける機縁となる。
 
福沢のような著名人が、見知らぬ一少年にすぎなかった竹四郎をすぐ迎え入れたとは信じがたい。だが、福沢と信州のつながりを研究している県立歴史館(千曲市)学芸員の村石正行さん(33)によると、政子の生家である山室家には慶応義塾を首席や次席で卒業した姻族がいた。福沢は、そんな〝勤勉な信州人″の一人として竹四郎のことも温かく迎えたようだ。

日本では十九世紀後半から、自由民権運動の高まりなどとともに近代的な新聞が続々と創刊された。スクープ合戦に加えて各紙は、多色刷りの美しい石版画を印刷所に作らせて付録とし、より多くの読者を獲得しようと競争した。その付録を「絵付録」という。 

それが本当に部数の向上につながったのか。絵付録などの産業工芸品を収集・調査している神戸大工学部助教授の今駒博信さん(50)は「当時、芸術的な色彩美を大衆が手軽に楽しめる媒体は版画だった」と指摘する。読者には結構、喜ばれたというのだ。
 
とりわけ石版は、まだ珍しかった西洋絵画の写実的な描法をカラーで量産できる先端技術だった。刃物で木の板を彫る木版とは異なり、平らな石の板にクレヨンや筆で描いた線や面の微妙な風合いをそのまま印刷できる特徴がある。
 
一方「時事新報」も、一八九二年には外国の通信社とも配信契約を結ぶなどジャーナリズムの先端を行く有力紙の一つだった。どれくらいの頻度で絵付録を発行したのか、正確な記録は残っていないが、ほとんど信陽堂が手がけたのではーと今駒さんはみる。

 「他紙の絵付録に比べ、採算を度外視して作ったとしか思えないほど出来がいい。〝高級紙″としてのプライドまで感じます」。政子の技術、福沢と竹四郎の信頼があって生まれた質の高さだろう。政子は、いわば視覚メディアが人心を動かすビジュアル社会の幕開けに携わったのだ。

 「政子は菊の栽培が趣味で、品評会によく出していた。鶏や七面鳥、いろんな鳥も飼っていましたよ」。存命では最年長の孫、太郎さん(82)=東京都=は、少年時代に接した祖母の面影をこう語る。

 「卵がかえるはずの日にひなが生まれてこないと、殻に小さな穴を開けて中をのぞいたりしていた。変なおぱあさんですが、何というか。。。晩年まで探求心が旺盛だったんですね」
 
当時、信陽堂は既に廃業していた。竹四郎が一九〇〇年代末、他社との合併で株式会社に発展させたものの、一九二三年に関東大震災で社屋を失ってしまったのだ。「時事新報」も震災を境に衰え、くしくも政子が世を去った一九三六年に廃刊となっている。
 
だが、政子が竹四郎と二人三脚で近代日本の視覚メディアをリードした功績は揺るがない。もし存命だったらインタビューを申し込み、その「探求心旺盛」な人柄に接してみたかったIそう思わされる美術家だ。
       (植草学)
岡村正子筆 明治時代






川崎市市民ミュージアム
(岡コレクション)









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戸塚文卿の祖父略伝


「長崎医学の百年, 第二章 長崎医学の基礎, 第十一節 ボードウィンの来任」より抜粋
  
   戸塚文海の韓は正孝、字は子成、通称は文海、本姓は中桐氏で、備中玉島の人である。幼時、学を郷の先輩に受け、医学に志し、十六才の時、宇田川玄真撰、文化二年刊の『医範提綱』を読み、大いに悟る処あり、洋学を学ぼうと思い、大坂に至り、緒方郁造の門に入り、その後、江戸に出て、坪井信道に随って泰西医学を修め、医学生間に盛名があった。萬延元年(一八六〇年)、 二十六才で、幕府の侍医静春院法印戸塚静海にその才学を愛され、養嗣となつた。この時、長崎の伝習所にポンペが教授していたので、幕命を受け、遊学し、更に後、松本良順氏に代って伝習所を督していたが、ポンペの帰国後は、ボードウィンに随って研鐙し、叉医学生を教督した。ボードウィンは丈海の内科に精るを称し、内科病室を挙げて文海に托した。
 
 慶応三年(一八六七年)、徳川慶喜が宗家を継いで将軍になった時、文海を長崎より召して侍医とし、常に傍らに侍さしめたが、医学の他、洋学に関してその顧問格となり、教示した処が多かったと云う。この時に当って文海は大いに豪商紳士に説いて市立大病院を起そうとしたが、間もなく、維新の騒乱となり、企画は実現しなかった。慶応三年十月に慶喜が大政を返上し、上野に謹慎した際、文海は随って侍した。徳川家が封を駿河に受けた時も従って駿河に移り、林研海等と共に諸生を教督した。そして、維新政府はしばしば招聴したが辞して起たなかった。明治五年五月、勝海舟の懲癒により、遂に維新政府の徴に応じ、同十月、海軍大医監に任ぜられ、同九年二月、海軍々医総監に陞任した。この時は恰も帝国海軍の創立に際しており、海軍衛生医務の事業において経営規画する所多く、遂に帝国海軍衛生医務の事業を創始した。同十年の役に功を樹て、勲二等に叙され、旭日重光章を賜わり、自ら久しく栄職にあっては後進の進路を妨けることを慮り、同十六年十月、病を称して職を辞し、願によって本職を免ぜられ、家に籠った。ところが、丈海の盛名は都下に噴々としていて、辞職後も静養することができず、病客は門に充ち、車轍の静かな日とてなかった。文海が職を奉じていた余暇に高木兼寛と謀り、首として自ら資を投じ、他を誘って、東京慈恵院を設立し、一は医学の実修とその進歩を謀り、一は貧苦無事の病民を救療するを期し、その恵に浴するもの多く、遂に現代の盛況に到った。晩年、専ら病客を謝し、静居安養し、点茶・聞香に閑を消したが、その交る所は頗を博く、書画珍器も多く蒐集していた。

 その妻配戸塚氏は早く破し、子がなかったので、久保氏を嬰り、六男二女を挙げた。嗣文雄、三男久保春海は共にドイツに留学し、林氏の子を養子としたが、それは海軍々医大監戸塚環海で、英独に留学せしめた。環海も頗る学名があった。文海が病臥すると、門人等は四方より集り、病床に侍したが、その病が危くなるに臨んで、特旨を以て従三位に陞叙せられた。享年六十七才であった。 (明治三十四年九月十二日「萬朝報」二千八百六十三号による。)

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聖ヨハネ会修道院ハイキング










 聖ヨハネ会修練院のハイキング


2012819日、山梨県忍野村にある忍野修道院に泊まり、翌日20日の朝早く、修道院を出発。山中湖周辺にある山に登りました。平尾山は標高1318メートル、大平山は標高1296メートル。山の上からは富士山と山中湖が一望に見渡せます。お天気に恵まれ、息を呑むほど美しい富士と湖に、急な上り坂の疲れも吹き飛んでしまいました。

神様の愛はしみとおる♪♪
わたしたちの心に♪日の光のように~
山も丘も一緒に賛美の歌を歌おう
     湖も林も一緒に 賛美の歌を歌おう♪~

山道には、釣鐘草やつゆ草、山紫陽花、萩、ひまわり、名も知らぬ色とりどりの花たちも賛美の歌を歌っていました。

帰りには、花の都公園に足を延ばし、温泉に入り、湯舟から富士山を眺めました。忍野修道院の近くでは、もちろん“忍野富士”が出迎えてくれました。

 どんなに大変なことが起ころうとも、神様はいつも天におられ、わたしたちの一人ひとりを見守り導いていてくださっていることを改めて実感した、すがすがしい一日でした。
              主のみ名はとこしえに賛美されますように!

                  ハイキングに参加した人 
                   ノエラ・ドイラ(準志願者)
                   Sr.ファウスチナ漆原(有期誓願者)
                   Sr.コンソラータ中村

                             でした。

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創立者 岡村ふくの生涯 8月


第二章の続き


岩下壮一氏とは暁星以来の親友で、その影響力は多大で、前述の英国における文卿の召命の決定へのきっかけも、彼なくしては考えられないことでした。
 「僕のなかで起こる変化は自分自身にもあまり不思議です。岩下君(代父であり、のちの岩下師)は僕に『完全な生活に入れ』という手紙をくり返し、くり返しくれました。僕はその度ごとに、自分の天職は司祭になることではないと返事しました。そしてあまりしつこいので腹を立ててしまいました。」
 帝大医学部を優秀な成績で卒業し、帝大教授になる当時の出世コースを歩んでいた戸塚文卿は、一九二一年(大正十年)、文部省から欧州留学を命じられてロンドン滞在中に、日本の友人にあててこう書いています。
「八月の末に岩下君の言葉にのせられて一週間ほどの予定で、うかうかと英国に遊びに来ました。そしてロンドンから五十マイル離れたコールダフンユという所の修道院にゆきました。そこである人に会いました。これは若い聖女(厳密な意味で)でした。僕の眼は生きている聖徳を見ました。そして僕の耳には主の御声が雷のようにとどろきました。もう万事を捨てねばならなくなりました。僕は二、三年間当地に滞在してのち、日本に帰り、東京にカトリックの病院(神様の家)を建てて、そこで医師としておよび司祭として働くつもりでいます。僕は毎日、僕と一緒に働いてくれる人を下さいと神様に祈っています。これが大体僕の今後の方針です。自分の心は今、最上の歓喜にあふれています。自分の心がまったく神様に帰ったからです。神様は毎日僕に驚くばかりの恵みを注いで下さって、自分は空を翔っているような気がします。福音書の言葉が一字一字光を放って、何事も直さいに僕の心に落ちて来ます。」
戸塚文卿が二十九歳の時のことでした。
 ロンドンで司祭への召命を受け、あらゆる名誉を捨てて、ラテン語と哲学の勉強を始め、パリのカトリック大学神学部での聴講を許され、一九二四年(大正十三年)六月十八日、パリ郊外サンースルピス神学校で司祭に叙階されました。
彼はフランス留学時代に一つの貴重な体験をしています。『ボンサマリタン』(善き牧者)といわれるグループをつくり、『男女の別なく、聖職者、一般信徒の区別もなく、種々の職業、身分の人々が共同で生活』して、キリスト教的理想を求め、それは医療上のミノンヨンとカトリック社会事業とを促進することを目的とするものです。
 戸塚師は司祭になるにおよんで、司祭として、医者として、そして男女の区別なく、自分と共に働く共同体づくりを決意しています。そして帰国後、この理想に従って自分の使徒職を展開していきました。
 叙階の翌年、一九二五年(大正十四年)に帰国、早速東京品川に『聖ヨハネ汎愛医院』を開設し、同年洗足に分院開設、その後結核の保養施設として『ナザレト・ハウス』を開設、その後、千葉九十九里浜に移転、病院組織として『海上寮』と改称されました。さらに目黒に診療所『聖ヨハネ医院』を開設、一九三九年(昭和十四年)、武蔵小金井に『桜町病院』が設立の運びとなりましたがその完成を待たずに、病院の建設中、司祭生活十五年目四十七才の若さで御父のもとに召されました。
 当時はまだ社会保障もすすんでおらず、不治の病として恐れられ、悲惨な状況におかれていた結核患者さんのため、彼は文字通り寝食を忘れて働きました。その献身的な活動に共鳴する人々と共に医療と福祉活動に力を尽くす一方で、「カトリック新聞社」社長の任の他、多くの執筆活動に力を注ぎ、過労のため心臓の疾患があらわれていたにもかかわらず、驚くほどの活動をこなしました。
戸塚師のご両親は、カトリック司祭となって帰国した息子を嘆き、その転向を理解することが出来ませんでした。彼がなぜ、すべてを捨てて司祭になったのか、息子が自分と同様に医学の世界に生きてくれるものと信じていた父としては無理もないことでした。勘当の状態は父の死の直前まで続き、その臨終に際して、父の承諾のもとに洗礼を授けられました。
 父上は今日、息子文卿の遺業の発展を「なるほど」とうなずいておられるに違いありません。
その当時は、医師と司祭の両立は許可されなかったので、戸塚師の場合、教皇の特別なゆるしをいただいて、医療活動を続けることが出来ました。
 生来やさしい戸塚師の心を一番引いたのは、外科患者さんよりも、結核で苦しんでいる人々、特に若い青年達のことでした。経済的にも緊迫している場合など、公園のベンチで寝泊まりする人も多く、入浴も出来ず、風だらけの青年が戸塚師を訪れたこともありました。彼はこうした青年たちを西小山の聖ヨハネ汎愛医院に引き取り、出来る限りのお世話を始めたのでした。
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創立者 岡村ふくの生涯 7月


第二章



出会い・使徒的活動へ



  岡村ふくの生涯を記すには戸塚文卿師について語らねばなりません。
 東京教区の偉大なる司祭、戸塚文卿師なくして今日の桜町病院は誕生せず、また岡村ふくの存在も修道会の創立者とは別な道をたどったことでしょう。
 当時の日本のカトリック教会に市民権を与えた、とまで評された戸塚師とは一体どのような方だったのでしょうか。
  一八九二年(明治二五年)二月十一日、海軍軍医総監を父に十人兄弟の長男として誕生した文卿は、父の勤務地の都合で佐世保の小学校から、一九〇四年(明治三七年)四月東京九段の暁星中学校に入学しました。示田部胤明著・戸塚文卿伝参照)
 暁星で寄宿生活を続けるうちに、他の科目はもとより、フランス語がぐんぐん上達し、四年生には首席になりましたが、先生方は文卿に一つの点で失望していました。それは彼が信仰についてまったく無関心なことでした。
 雪の日には、しばしば校庭の石垣のところに立っている聖ヨゼフの小さな像に雪球をぶつけて遊んでいる姿が見受けられました。ところが、四年生の冬休みに文卿は寄宿から品川の父母のもとに帰って父に会った時、父がなにか急に年を取ったという感じにおそわれ、この父上ともいつかは別れなければならないと思うと、たまらない淋しさがこみ上げてきました。寄宿舎にもどってから、ある晩、べドについてまだ眠れずにいると、突然「僕が今すぐ死んだらどうなるのだろう」という疑問が彼の心に強く起こってきました。それを打ち消すことができず、あまり心配になったので、朝になると急いで代数を教えて下さっていた高齢のセネンツ先生のところに行って、そのことを打ち明けました。「君にも宗教心が芽生えるようになったのです。信仰は神様のお恵みです。これからカトリックの要理を習い、そしてよく神様にお祈りなさい。『求めよ、さらば与えられん』ですよ」と先生はやさしく悟してくださいました。
文卿はこれらの心境を後日、妹の明子に宛てた長い巻紙の手紙に書いています。
「父母すでに老いませりとの感は中学時代より胸に浮かびてわれをなやましたりき。また父上の眼鏡(老眼鏡)かけ給いしとき、いい知れぬ哀感に胸を打たれにき。父上、母上いかに健やかなればとて百年、千年の命は望むべくもなきに、われらのいかに泣けばとて、この日のきたらずにやむべき。御身これを思いて何らの感なきか。僕はかくのごとくにして宗教の門に導かれ候。人死して形、心ともに滅すべきか。父上母上死なれ、われ死し、御身、われらが弟妹亡びて互いに感ぜず、思わず、愛ささざる『無』たるべきか。僕の心は到底かく冷静に観ずること能わず候。かくて僕は、この悲しみを解決せんとて神に信じ永生に信じ始め候。しかして今、系統的にわが公教の一般的神学を研究して、公教においてにあらざれば真に神と真理と永生に至る能わざるものなることを信じ候。」
友達の間で宗教の議論が始まった時、どちらかといえば反対の立場に立っていた文卿は、五年生頃からそのような時、沈思で、口数が少なくなっていきました。その頃文卿は級長をしていましたが、多少友達にボイコッ卜されても、少し位いじめられても、マリア会修士アンリー・アンヘルクロード神父について、フランス語で要理の勉強を続けていきました。
 暁星在学中に洗礼を受ける準備が出来ていたので、卒業前に父に許しを願いましたが、父は承諾しませんでした。その後一高に進学してから文卿は洗礼について真剣に考え続けている思いを、自宅から近い麻布カトリ。ク教会主任司祭のツルペン神父(パリ外国宣教会)のところへ相談に行きました。するとツルペン神父は次のように言われました。「あなたのお父さんは、あなたの肉体上のお父さんです。しかし私はあなたの霊魂上の父です。次の土曜に、代父となる人と一緒にこの聖堂においでなさい。私が洗礼を授けます。お父さんが何か文句をおっしゃりたい時には私が受けましょう。」と。

 このようにして代父には先輩の岩下壮一氏が立ち、文卿はツルペン神父から洗礼の恵みをいただきました。霊名はヴィンセンシオ・ア・パウロの名を選びました。フランスの十七世紀の社会福祉の父と呼ばれた、貧しい人々、弱い立場に置かれた人々のために生涯を捧げた聖人を保護者とした彼が、将来同じような生き方をもって、神と人々に仕えるようになろうとは、神のみがご存じでした。
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創立者 岡村ふくの生涯 6月


1

誕生・家庭・信仰のめばえ

今から百年前、両親と兄姉の愛に囲まれて、一人の女の子が誕生しました。
 世の中が戦争や天災、政治の混乱など、生きてゆくことさえ大変な時代に、日本の
医療と福祉を通してキリストの愛を、とくに苦しい状況に置かれている人々にもたら
そうと、生涯を賭けてゆくことになろうとは誰が予測したでしょうか。

岡村ふくは一八九九年(明治三十二年)六月三日東京、京橋で生まれました。
父竹四郎は一八六一年(文久一年)に、母政子は一八五八年(安政五年)ともに長
野県出身で、若い頃に上京し、竹四郎は福沢諭吉の塾生として学び、政子は神田駿河
台のニコライ神学校に入り、寄宿生活をしながら自活し、日本で最初の国立美術学校
(現在の東京芸術大学)の一期生となりました。ニコライ大主教は洗礼を授けて下さ
っただけでなく、政子の才能を発見し、イコンの制作と、当時まだ日本ではめずらし
かった石版画印刷の指導もして下さり、後に竹四郎と政子が創業した印刷業信陽堂(
のちの東洋印刷会社)に対して、沢山の注文を出してその発展を援助し、支えて下さ
った大恩人でした。
 竹四郎の恩師福沢諭吉氏も、当時創設された時事新報の印刷を委託し、初期の資金
難の際には無償で竹四郎の事業を助けて下さいました。
 事業は順調に発展し、大勢の使用人を抱えて、両親はその経営に忙しい毎日でした
が、子供達の教育には特別に力を注ぎ、決して甘やかすことなく厳しく教育しました。
 ある時こんなことがありました。小学生だったふくが自分の用事を使用人の方に頼
んでいると母は即座に「あなたのご用をするために来ていただいているのではありま
せん」と言って、手伝ってもらうことを許しませんでした。
 生後一週間目に洗礼のお恵みをいただいたふくは、幼い頃から、いつも両親に連れ
られて神田のニコライ堂へ熱心に通いました。そして日々の生活を通して信仰は育ま
れてゆきました。
 晩年彼女は次のように話していました。
 「わたしはあの頃、母の腕に抱かれて祭壇から帰る時、イエズス様をお悲しませす
るようなことは決していたしませんように…と子供ながらとても熱心に祈りました」
と。
 すでにその頃からふくの心には生涯をキリストに奉献したいとの望みが芽生えてい
きました。母が復活祭の朝までかかって染めた卵を皆で手に手にローソクの光に照ら
されながら興奮のうちに、おめでとうの言葉をかわした、あのなつかしい光景を、ふ
くは忘れることができませんでした。
 ふくが小学校に入学する頃、父の事業は全盛時代でした。芝公園五号地、御成門の
千坪以上の広い土地に建てられた家は竣工の際、ニコライ大主教に祝別していただき
ました。大きな木の門を入ると、広い通路に砂利が一杯に敷きつめられ、木立の奥に
ある正面玄関を入ると二間続きの玄関の間、隣が洋風造りの応接間と書生部屋、前を
広い廊下がずっと東西に走り、右の手前側に食堂と広い台所があり、さらにいくつも
の客間と家族の団楽のための居間がありました。ベランダのある二十畳以上の広い寝
室は、両親と末っ子ふくの居間兼用になっていました。
 広い窓から太陽の光が一面に差し込む寝室のべ。ドで、幼かったふくは朝起きた時、
そして夜寝る前に神に祈ること、一日のおこないのすべてを神のみ手にゆだねること
を、無言のうちに母から教えられ、その精神は生活のなかに浸透してゆきました。
 鯉や金魚のたくさん泳いでいる池には美しいすいれんの花が咲き、たくさんの樹木
が暑い夏に涼しい木陰をつくってくれました。
 父はいつも誰よりも先に出勤し、職員の先頭に立って働き、母は画家としての名声
よりも家庭生活を大事にし、もっぱら家事に専念していました。野菜づくりと花畑に
精を出し、とくに母の作ったいちじくジャムは子供たちが大好きでした。
 子供たちも年齢に応じていつも家事を手伝い、勉強はその次でよいといった方針で、
生活も質素倹約を重んじて、決して贅沢は許されませんでした。
一番上の姉、こうとは十九才、次の姉よしえとは十六才もの年齢が離れていたので、
ふくは八才違いの兄三郎と、六才違いの兄四郎とよく遊び、いっしょにお堀り端ヘホ
タルを取りに行ったことなどを憶えています。
 やがてふくは泰明小学校へ入学しました。母が四十二歳の時に生まれ、その時あま
り丈夫でなかった母の体質を受けついでか、ふくも生まれた時から、そして小学校へ
入ってからも、しばしば大病にかかりましたが、両親、兄姉たちの愛を一身に受けて、
明るい、元気な子供に成長してゆきました。小学生時代の思い出を当時のクラスメー
トの一人が次のように語っていました。

「信仰厚いご両親様や優しいお兄様方の間で育まれたふく子さんは円満で、るい、可愛いお嬢様でした。当時は洋楽を学ぶ人はまれで、ピアノを弾かのはクラスでは岡村さんぐらいでしたでしょう。丁度三年生のときでした。めて音楽学校出の専門の先生が赴任され、楽譜を用いて唱歌を教えて下さるうになり、小学校で初めての音楽会が催されました。先生と生徒が一体となって独唱、合唱、和洋楽など盛大に行われた第一回目、それはそれは大好評で、以後学校の名物になりました。その時、岡村さんの演奏は申すまでもなく大拍手でした。お宅が芝公園の方に移られた折、一時転校されましたが、間もなくまた戻っていらっしやいましたが、その間の淋しかったこと、再びいらっしやった時の喜びは今でも忘れません。」

 岡村ふくの誓願二十五周年の時、記念誌に寄稿して下さった文章ですが、数十年を
経てもなお失せない、当時のおっとりとしたふくの魅力をうかがい知ることができま
す。
 楽しかった小学校を卒業して、香蘭女学校へと進みました。今日のように塾通いも
なく、また特別に家庭教師につくこともまったくなく、家族の者は成績のよし悪しを
心に留めませんでしたが十二年間を通じてふくはいつもクラスで一番でした。
 その当時女性は女学校を卒業すると結婚の準備期を迎えるのが常で、教員になりた
い人たちが師範学校へ進学することはあっても、今日のように国立の大学へ男子と
っしょに入学することはほとんどありませんでした。
 家事の手伝いは厳しく躾けられ、両親の言いつけには決して背いたことがないふく
でしたが、その内には燃えるような向学心を抱いていました。
 神の摂理は、私たちに一見偶然とみなされる出来事のなかに、計り知れなく深い愛
が働いています。
 ふくが女学校を卒業した丁度その年に、家から近い聖心女子学院に英文科の専門学
校が初めて開校されました。卒業式を控えてのある日、仲の良い友人と二人で学校の
帰り道にふらりと聖心女子学院の門前に立ち寄ったところが、受付におられたマザー
は、二人が入学試験のために来たものと思いこんでしまわれ、どんどん試験場へと案
内して下さったのです。
「ちょっと見学させていただくだけですから……」と説明したくとも、マザーには
日本語がまったく通じず、かといって英語で説明することも出来ないまま、思いもよ
らず入学試験を受けることになってしまいました。
 さあ一週間後に入学許可の通知を受けた時の両親の驚きは如何ぽかりでしたでしょ
うか。このあまりにも急な、そして半ばおかしいような出来事に、二人は戸惑ったも
のの、これらを信仰で受け止めたのでしょうか。
 勉強に熱中しすぎて身体をこわさないこと、家事の手伝いを怠らないこと、この二
つのことを守れるならばという条件で、進学を許してくれました。この聖心女子学院
への入学が、ふくにとって何ものにも代えがたい大きな恵みをいただくことになるは
じまりとは、知る由もありませんでした。
 聖心女子学院での学生生活は、ふくにとってそれはそれは忙しいものでした。なぜ
なら母との約束通り、家事分担の務めを果たしてゆくためには、朝五時前に起きなけ
れば間に合いません。母から頼まれることには決していやと言わないように心がけま
した。
 毎日膨大な量の予習、復習に辞書と首っぴきでの猛勉強でした。日本人だからとい
って、ゆっくり話されることなどなく、マザーの、ものすごいスピードの英語は、ま
るで英国の大学へ入ったようでした。はじめの一か月は聞き取ることも、ノートをと
るのも困難な有様でしたが、二、三か月過ぎると少しずつ慣れてきて、英語で試験の
答案も書けるようになりました。
 少人数で充実した学生生活の中で、とくにマザーズから受けたさまざまの教え、そ
の生き方をもって、ふくは自分か変えられていくのを感じました。彼女たちをあのよ
うに燃え立たせているものは何なのだろうか。あのような原動力はどこから来ている
のだろうか、と。
 遠い昔、母の腕の中で聖体拝領の帰り道、秘かに自己奉献したキリスト、あのお方
のみ教えを宣教するために遠い日本へ派遣されて今、私たちを単に学問のみでなく、
そのキリストヘの愛に強烈に駆り立てて下さる・・・そんな思いがふくの心にふつふ
つと、わいて来ました。
 卒業の年にふくはごく自然のことのようにカトリ。クヘ改宗しました。
 卒業後も学校に残り、マザーの助手として、語学やカトリ。クの教えについての授
業を受け持ちました。
 当時の様子を義姉ゆりが次のように語っていました。
「私か岡村家に嫁した頃に一番おどろいたことは、ふく子さんの日課で朝の早いこ
とでした。毎朝ミサに出られて、そのあと英語の個人教授をして帰られ、母を助けて、
裁縫、洗張り、畑仕事、家畜類の世話、小屋の掃除など、ある時は兎もだんだん増え
て十五、六匹にもなり、寒い時など、さぞ大変だったと思います」と。
 ふくは、戸塚師の働きを助けるために、目黒区月光町の生家を出て、西小山に住み
込むようになりました。そこから時々実家へ帰ることがあったので、当時まだ幼かっ
た姪、初子の目には、家にいる時、いつも手紙や本を読んでいたふく子おばちゃんの
姿が焼きついていました。
原本

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創立者 岡村ふくの生涯


はじめに
   あなたがたがわたしを選んだのではなく、
     わたしがあなたがたを選んだのです。
                                                  (ヨハネ十五の十六)
 今から六十四年前、東京都小金井市(当時東京府北多摩郡小金井
町大字小金井)に木造建築の桜町病院(呼吸器科・精神科)が建ち
まちた。
 当時日本で国民病といわれていた結核は長いあいだ国民死因順位
の首位を占めていました。ひとたび感染すると特効薬もなく、安静、
大気療法、栄養補給等による治療法に頼る以外なく、家族からも見
放され、社会保障も今日のように充実していなかった時代、その悲
惨な状況に置かれていた人々を助けようと、医師であり、カトリッ
ク司祭であった戸塚文卿師は心血を注いで理想の病院の建設のため 
に働きました。
 彼のまわりにはいつも多くの協力者たちがいました。しかし病院
の完成を前に過労のため四十七歳の若さで帰天しました。
 戸塚師が残した事業は東京教区土井辰雄大司教の命によって、岡
村ふくの手に委ねられました。修道会の創立者となることなど考え
てもみなかった彼女は、しばらくの猶予を願いました。個人的な望
みを捨て、その命に従うことが神の御旨と悟った時、彼女はその任
を引き受けました。多くの才能を有しながら表立つことが嫌いな彼
女でしたが、意に反して次々与えられる荷は重いものでした。いつ
も祈りの中で模索し続けた日々でしたが、ひとたび神のご意志とさ
とった決断に際しては、勇敢に立ち向かって行きました。
 教区司祭戸塚文卿師によって誕生した桜町病院は、岡村ふくおよ
び多くの協力者の手によって成長していきました。
 二十一世紀を迎えた今日の日本は、医療・保健・福祉の統合の実
現とともに、病気、高齢他、困難な状況に置かれている人々への配
慮は、当時とは比較にならない程に進歩しました。
 貧困の中でも屈することなく、病気との戦いを励まし力づけ、一
人一人の病床の枕辺に、主のよき便りを運ぶ彼女の姿勢は、その晩
年に至るまで変わりませんでした。
 すべてが崩壊されてゆく戦時中、一九四四年(昭和十九年)六月
に東京教区大司教の認可のもとに修道会創立の許可がローマから届
きました。
 桜町病院の創立者である戸塚文卿師、修道会の創立を望まれた土
井枢機卿のご意志を継いで、祈りのうちに、その実現のためにひた
むきに生きた岡村ふくの生涯をふり返り、あふれる程の神の恵みに
感謝を捧げながら伝記をまとめました。
       平成十五年十月十八日
            桜町病院創立記念日に
               福音史家聖ヨハネ布教修道女会
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